三木学
京都・奈良は古都として知られている。しかし、長年、奈良に住んでいる人間からすれば、奈良は「古都」ではない。なにせ794年(ナクヨ)、平安京遷都以来、1200年以上都の機能はないわけだから、都の面影ほとんどないといってよい。平城宮跡や藤原京跡を見ればわかるように、ただただ野原が続くだけであって、「廃都」なのである。もちろんそれが悪いというわけでは決してない。
また、京都と奈良は寺社仏閣で知られているので、同じように捉えている方も多いのだが、その「質」はかなり違う。奈良の寺は、法隆寺や興福寺、薬師寺、唐招提寺、東大寺(元・総国分寺)、法華寺(元・国分尼寺)などを中心とした「官寺」を起源とする。また、行基などによって山間に作られた多くの寺は公式の寺院ではなかったが、民間の仏道修行の場として機能していただろう。
それに比べて、京都は平安京遷都が奈良の仏教勢力から距離を置くことも一つの要因であったため、洛中には東寺と西寺くらいしか官寺が置かれず、その後、寺院になったものは「私寺」として建立され、貴族の別荘などを転用することが多かった。素晴らしい庭園があるのも元が別荘であると考えると腑に落ちるだろう。奈良と京都の寺を拝観したときに感じる違いは、その起源によるところが大きい。
いっぽう、大阪の中心市街地になると、寺社仏閣で明治以前からの建築が現存しているものは極めて少ない。大阪市内は空襲が激しかったため、古いものがほとんど残ってないのである。近代建築が残ったのは、構造がレンガだったり、鉄筋コンクリートだったりしたため延焼を免れた、あるいは、米軍が終戦後の接収を見越してわざと狙わなかったという理由による。
近年、大阪の近代建築が注目されるようになったのは、そのような建築も解体されることが多くなり、数少なくなってきている現存の建築を評価しようという機運が生まれたことも大きいだろう。私も、橋爪紳也先生、高岡伸一さんと『大大阪モダン建築』(青幻舎、2007年)を編著し、そのブームを後押しした。大阪の近代建築は、居留地のように特定の区画を指定して建てられたケースは少ない(川口の居留地は早い段階で神戸に移転した)。
そのため、中之島の大阪市中央公会堂、大阪府立中之島図書館、日本銀行大阪支店あたりは、一つの景観をなしているが、それ以外は分散している。南北約2km、東西約1kmの「船場」を中心に、豊臣秀吉によって作られた「町割」という条件の中で、民間主導の商業的な目的と施主の趣味によって建てられた近代建築が、土地柄と時代性を色濃く残しており、面白い、というのが特徴であろう。連なった景観をなしていないだけに、歴史的背景を出版などのイメージで伝えることは一層重要になる。
神戸は旧居留地や北野の異人館などに集積しており、もともと近代建築は多い。京都も実は多くの近代建築が残っている。そのため、京阪神をまとめた近代建築ガイドも多数刊行されるようになってきている。
–
ひるがえって、奈良の近代建築はどうか。奈良の近代建築は残念ながらほとんど話題に上ことはない。このサイトは、実は奈良こそモダン都市であり、日本的なモダン建築を醸成してきた可能性があり、もっと評価すべきではないか?という思いで作られたものだ。
もちろん、近年、リニューアルしホテルにするということで、奈良少年刑務所(設計:山下啓次郎)が取り上げられたりしているが、それはまだまだ点に過ぎない。
このサイトではそれらの群を「大和モダン建築」と命名し、奈良という空間が、日本建築、西洋建築を統合する一つの地場を形成しており、奇しくも、西洋的な都市空間を一部実現しているのではないか、という仮説を提唱している。
奈良公園に遊びに来た方は多いと思うが、奈良県庁舎(設計:片山光生)、奈良県立美術館(設計:片山光生)、旧帝国奈良博物館本館(設計:片山東熊)、旧奈良県物産陳列所(設計:関野貞)、奈良ホテル(設計:辰野金吾・片岡安)などの近代都市を構成する近代建築が集積している。また、電線は地中に埋められ道幅は広く、奈良公園などの広場が開けており、興福寺・奈良基督教会そして東大寺や春日大社などの宗教施設が揃っている。このような空間はもしかして、日本において、奈良にしか存在しないかもしれない。この風景はむしろ、西洋の都市に近いのではないかとさえ思える。
都市が成立する過程で、フランス風の旧帝国奈良博物館本館が景観になじまないとされたり(これは俗説なのではないかいう指摘を本サイトで岡田さんが指摘してる)、日本聖公会奈良基督教会教会堂が和風建築になったりするなど、古い歴史と市民の声によって、奈良の景観は和と洋のバランスを取りながら形成されていったように思える。例えば、建築家が、正倉院などの高床式の建築と、ピロティを重視するモダニズム建築との間に、類似性を見出したということもあるだろう。結果的に、建築家たちの感性を引き寄せ、奈良という歴史、奈良という地場、奈良に住んでいる人々が作り出した建築や都市空間といえるのではないだろうか。
寺社仏閣だけではなく、このような奈良のモダン建築と、奈良のモダンな都市空間を再評価していく必要があるのではないか。そこには明治以降、西洋の思想・意匠・技術を取り入れなる中で、葛藤してきた日本の都市の一つの解答があるのではないか。過去と現在の建築を合わせた、空間全体として一体感がある心地よさ、をもっと知ってもらう必要があるのではないか―。
そのような観点から、少しずつ検証を深め、サイトを充実していく予定である。もちろん、ここで挙げたような仮説は見当違いということもあるかもしれない。しかし、大胆な仮説をもってしか見えてこない真実もあるだろう。精緻な背景や建築の解説は、岡田さんが担っているので、更新をご期待いただきたい。今は奈良県出身の2人からの出発であるが、同じような思いを持つ方がいれば、是非ご協力いただければと思っている。