明治の行政文書にみる、奈良公園の理想像

 都市計画の歴史を紐解く上で、行政文書を読み解くのは基本中の基本と言えるだろう。上申書や計画書を読めば、当時の人々が何に課題意識を持っており、どのような未来を思い描いていたのかが浮き彫りになる。彼らの描いた未来像は、幾つかは今日において実現したものも存在するが、大抵の計画は全くの夢物語として誰からも忘却されてしまうものである。しかしその中には、現代人の目から見ても斬新であったり、突飛であったり、逆にうなずかされる鋭い指摘や考察が埋もれているものである。

 この記事では、明治時代の奈良県行政文書のうち奈良公園の開発に関するものを取り上げる。そして、100年前の奈良県民が、奈良公園にどのような未来を描いていたのかを分析し、今日の公園との相違点や共通点を分析する。

本章で用いる史料

 本章では既往研究である『奈良公園史』を参考にしつつ、奈良県立図書情報館所蔵史料に見る公園開発者が有していた公園評価・公園イメージを分析する。

本論で中心的に用いる史料としては、以下の6つが挙げられる。

  • 明治12年 公園創設時の上申書
  • 明治20年 興福寺南大門周辺の改良上申書
  • 明治21年 猿沢池・興福寺周辺の改良計画趣意
  • 明治21年 公園拡張案 上申書
  • 明治25年 公園改良委員設置 建議書
  • 明治26年 公園改良計画 修正案

 これらはいずれも、公園平坦部全体の景観を大きく変更する大規模な公園の改良・開発・拡張計画にまつわる上申書・建議書・計画案である。いずれもその文中にて、当時の公園景観への指摘・分析・評価がなされているため、文中における「公園平坦部の景観を評価する文」を抜き出し整理することで、当時の人々が奈良公園の風景をどのように認識していたかを把握する重要な手がかりとなる。
 抜き出した文章は、「評価対象」による分類と「理想と現実」による分類の2軸で分析した。すなわち、まず当時の人々が公園の「植栽」「社寺」「民家」「水系」などの景観構成要素の内、いずれを重視していたのかという「評価対象」を見極める必要がある。今回の分析では大雑把に「公園全体」「人工物(社寺・民家など)」「自然物(植栽・水系など)」の3つの分類で、史料中の公園描写を整理した。
 同時に忘れてはならないのが、抜き出した文章が「現実の公園風景」を描いた文章であるか、「将来の奈良公園の理想像」を描写したものであるかという分類である。例えば文中に「奈良公園の芝生は美しい」という文があれば、明治時代の奈良公園において芝生景観が存在しかつ評価されていたことを示唆するものとなるだろう。また、「芝生景観の完成を目指す」などの一文が複数確認できれば、たとえ当時の芝生景観が面積的に乏しいものであったとしても、芝生景観が奈良公園を象徴する理想的な風景としてブランド化されているとみなすことができるだろう。
 以上の分類を下記のような表としてまとめることで、当時の公園開発主体が、奈良公園の「何を重視し」、「どのような姿を目指していたのか」を把握する。

明治12年 公園創設の上申書

 1章にて紹介した通り奈良公園の設立の背景には、廃仏毀釈によって荒廃しつつある興福寺境内の保護と、遊覧客誘致の中心基盤確保という町民の悲願があった。その願いは明治12年に第十六号公園に指定されたことで実を結ぶ。下記の文章は、当時堺県の管轄にあった興福寺境内を奈良公園として開設することを願い出た際の上申書およびその返答[1]奈良県立図書情報館所蔵『官省御指令綴込』1876。である。

公園地之義ニ付伺

当県下大和国奈良興福寺休憩台及ヒ猿沢池近傍之義ハ千古之堂宇どうう存在シ名勝旧蹟尠不すくなからず、殊ニ土地高燥、四時共断不たえず庶人来観スル所ニシテすこぶル淸雅之風景之有ニ付、旧奈良県ニ於テ偕楽公園之積取調、木石草花ヲ栽植シ追々体裁相立候中、同県廃被、土地処分方其儘当県へ引継相成候処、今般こんぱん該区戸長等ヨリ右確定之義出願之趣之有、篤ト取調候処、何等差支之筋之無、至極民情ニ適当シ該地維持之一助トモ相成候間、自今公園地ト相定申度、依而地坪取調書并実測図相添此段相伺候也、
(以下省略)


明治十二年五月三十一日 
堺県令税所篤代理 堺県大書記官 吉田豊文 印
内務卿 伊藤博文殿
書面之趣聞届候事

但シ中學校敷地ニ見込之場所、今般公園ニ相成候上ハ、他日學校地ニ充候トモ、園内之義ニ付、地景変更、且樹木伐採等之儀ハ、総テ相成不儀ト相心得可事
明治十三年二月十四日 
内務卿 伊藤博文 印

奈良県立図書情報館所蔵『官省御指令綴込』1876

 このとき公園地として想定されたのは、④興福寺エリア⑦猿沢池エリアを中心としたごく狭い範囲のみであったが、かねてより「木石草花ヲ栽植シ追々体裁相立」てきたこれらの範囲を公園指定することで、その景観の「維持之一助」となることがその目的であった。また、伊藤博文の答申にも「地景変更、且樹木伐採等」をすべて禁止する旨があることから、やはり当時の公園管理方針が景観の現状維持にあったことが窺える。

明治20年 興福寺南大門周辺の改良上申書

 また、明治21(1888)年の公園地拡張を目前に、2回ほど大きな景観開発が施されている。例えば明治20(1887)年9月には、興福寺南大門を中心とした一帯に対し、以下の通り開発が申請[2]奈良県立図書情報館所蔵『明治廿一年 公園名勝地書類』1888。されている。

「庶甲第一六四号」
公園地改良ノ義ニ付申請

当奈良公園ニ於ケル、天然ノ風光ニ富ミ眺望尤モよろシク、奈良勝区中第一ノ好景ヲ占ムルト言フモ敢テ過当ノ言ニアラサルヘシ、特ニ別紙該園略図中五重塔・東金堂ヨリ以西、興福寺南大門旧址ノ辺ハ好景中ノ好景ヲ占メ、 四時衆庶ノ散歩遊楽スルモノ多ク、実ニ奈良地一大楽境ト称スヘキ場所ナリトス、況ンヤ該所ハ已ニ陳述セルカ如ク、興福寺南大門ノ旧址ナルヲ以テ概シテ該場所ヲ南大門ト呼ヒ、其名世ニ昭著ナリトス、故ニ旅客ノ奈良地ニ遊フ者けだシ之ヲ尋ネサルハナシ、然ルニ其朱角印ト朱零印トヲ重ネ印セル場所へ常住者ヲ許セシ以来、風光大ニ損シ或ハ襤褸らんる澣濯かんたくセルモノヲ曝ラシ、或ハ建物ノ周囲ニ種々見苦敷物品ヲ露積セルカ如キアリテ、来遊者ヲシテ其目ヲ蔽ハシムルアリ、又ハ汚水ノ浸潤セルアリ、殊ニ甚タシキハ厠圊かわやノ構造其宜シキヲ得サルヲ以テ、屎尿ノ漏洩シテ地上ヲ汚穢ナラシメ、悪臭ノ鼻ヲ撲ツアリテ、折角好景ヲ弄シ、其意思ノ爽快ヲ求ムルモノ若クハ南大門ノ旧址ヲ尋ネ其心裡ニ得ル所アラントスル旅客等ヲシテ、其風光ノ損セシト不潔ノ甚タシキトヲ洪歎こうたんセシムルニ至レリ、斯ル実況ナルヲ以テ若シ此儘ニシテ荏苒じんぜん歳月ヲ経過セハ惜可、勝区旧址ヲシテ遂ニ観ルヘカラサルノ陋巷ろうこうタルニ立至ルヘシ、依テ今般右常住者ニ退去ヲ命シ、爾来じらい該場所ニハ一切常住ヲ許サス、其常住ヲ願フ者又ハ一時興行小屋ヲ設ケン事ヲ願フモノゝ、如キハ成可五重塔・東金堂以東、則別紙略図中墨点線内ニ於テ之ヲ許スモノトシ、尤モ其建物等ノ構造粗悪ニシテ園地ノ風致ヲ害スルト見認ムルモノゝ如キハ之レカ構造ヲ許サス、大ニ園地ノ体面ヲ改良ナラシメ昔日ノ美観ニ戻サント欲ス、付テハ前記退去ヲ命シタルモノゝ建物取払跡へ芝草ヲ植栽スル等多少ノ入費ヲ要シ候間、別紙見積書ノ通、該費金御下付下被度、而シテ退去ヲ命スルニハ凡ソ三ケ月間ノ猶予ヲ与フルノ見込ニ之有、且此退去ヲ命スルモ人心ヲ動カスカ如キハ之無見認居候条、事情御汲量御支牾ノ廉モ之無候ハゝ、夫々実行致度、此段申請仕候也、


明治二十年九月二日
大阪府添上添下山辺郡長 稲葉通久
大阪府知事 建野郷三殿

奈良県立図書情報館所蔵『明治廿一年 公園名勝地書類』1888

 これによれば、奈良公園の風景は「天然ノ風光ニ富ミ」「奈良地一大楽境ト称スヘキ場所」と絶賛する一方で、「見苦敷物品ヲ露積」するものや「構造粗悪ニシテ園地ノ風致ヲ害スル」する建物など、半ばスラム化した興福寺の風景も描かれている。「大ニ園地ノ体面ヲ改良ナラシメ昔日ノ美観ニ戻サント欲ス」とあることから、ここでの公園開発もむしろ復古的な動機に基づいて行われていることが窺える。

明治21年 猿沢池・興福寺周辺の改良計画趣意

 さらに、公園地の拡張に前後して、猿沢池も含めた奈良公園の改良計画が平田郡長より企画[3]奈良県立図書情報館所蔵『明治廿一年 公園名勝地書類』1888された。

公園改良報告(自一月至六月)
◯奈良公園地改良旨趣
夫レ人ハ各己(個)ニ職業ヲ有シ労働ノ之ニ伴フアリ、必スヤ歓楽ノ以テ心性ヲ娯マシムルモノナカルヘカラス、其娯タルヤ又世ト偕ニスルノ愉快ナルコトヲ感悟セサルヘカラス、今ヤ四海ヲ兄弟ニシ宇内ヲ一家トナスノ勢ヒアリ、此時ニ方リ、苟クモ亦文明的ノ歓楽ヲ取ラサルヘカラス、之レ即チ西洋二於テ夙ニ公園ノ起ル所以ナリ、惟フニ奈良ハ奈良ノ奈良ニアラス、内外人ヲシテ旧都ノ古ヲ吊(弔)フコトヲ得セシムルモノハ畢竟スルニ名勝古跡ノアルアリテ然ラスンハアラサルナリ、試ニ欧米公園ノ実況ヲ想ヘハ四季三旬遊客雲ノ如ク麕集シ其盛ンナルコト論ヲ俟タス、顧ミテ我奈良ノ公園ヲ見ヨ、天然ノ風光ハ瑞西スイス・薩撒ニ勝サリ、古代ノ遺跡埃及エジプト羅馬ローマニ駕スルモノアルニ拘ハラス、其景況ハ寂々寥々トシテ日一日ヨリ衰頽すいたいシ毫モ公園ノ実蹟ヲ備ヘサルノミナラス、猿沢池水ノ如キ ハ新陳代謝ノ途ナキヨリ、已ニ池水腐敗ヲ来タシ夏時臭気四辺ニ放散シテ行人ノ鼻ヲ打ツト雖モ恬トシテ其改良ヲ企図スルモノナシ、あに遺憾ナラスヤ、今回数百株ノ花木ヲ植栽シ道路ヲ修メ街燈ヲ設ケ以テ大ニ公園ノ風致ヲ粧ヒ、更ニ一条ノ清泉ヲ引キテ猿沢池二注キ池水ヲシテ復タ腐敗ノ憾ナカラシメ、以テ花晨かしん日夕にっせき偕楽ノ公園トナサハ、夏ハ清風ノ日熱ヲ消スアリ又冷水ノ暑苦ヲ洗フアリテ涼ヲ樹陰ニ納ムルニ足ラン、斯クノ如クニシテ始メテ衆庶偕楽ノ実ヲ全フスヘク、又此計画ヨリシテ我奈良地ノ利益ヲ進メ繁昌ヲ益ス事方サニ測ルヘカラサルモノアラントス、是レ公園改良ノ必要ナル所以ナリ、(以下略)

奈良県立図書情報館所蔵『明治廿一年 公園名勝地書類』1888

 前述の改良計画と同様に、「天然ノ風光ハ瑞西・薩撒ニ勝サリ」「古代ノ遺跡埃及・羅馬ニ駕スル」と、その風景の人工物・自然物を問わず絶賛しているが、「景況ハ寂々寥々トシテ日一日ヨリ衰頽シ」とあるように、「本来は美しい興福寺境内が、現在ではその真価を発揮できていない」という文脈がここでも窺える。むろん、「数百株ノ花木ヲ植栽シ」「道路ヲ修メ街燈ヲ設ケ」「一条ノ清泉ヲ引キテ猿沢池二注キ」とあるように、必ずしも近世興福寺の復元ではないが、景観の保護・保存という性格が強いものである。
 以上のとおり、公園開設後の約10年において、公園風景を書き換えるような積極的な開発は企図されておらず、せいぜい「民家の立ち退き」「花樹の植栽」など、現在の景観を整える程度であった。これは、公園の敷地が興福寺や猿沢池といった近世以前から名勝として親しまれた風景であり、それを上書きするような大規模な開発を推し進める動機が薄かったためであろう。しかし後述するように、公園地として登録される敷地面積が広がるにつれ、奈良公園はより具体的な景観イメージを目指した、主体的・積極的な開発を試み始めることとなる。

明治21年 公園拡張案 上申書

 明治21年、奈良県の独立を契機とし、若草山や春日山、東大寺境内など多くの名勝地や旧跡が公園地に取り込まれた。公園敷地は506町8反4畝程にまで広がった。俗に言う「大奈良公園」である。では、その大奈良公園は、どのような風景をイメージして完成したのであろうか。公園拡張を打診する初代奈良県知事税所篤の上申書[4]奈良県立図書情報館所蔵『明治二十七年 奈良公園改良ニ係ル書類』1894を見てみよう。

(朱書) 「乾庶第二五号」
公園地取拉之義二付上申

奈良公園ハ旧興福寺境内地跡ノ幾分ヲ以テ之ニ充テタリ、然ルニ当地ハ従来内外人来テ風月ノ勝ヲ探リ旧都ノ址ヲ訪フモノ多ク、殊ニ置県以来来遊者ノ数亦自ラ多キヲ加フルニ至レリ、従テ其来遊者ヲ待ツあつキヲ加ヘサルヲ得サル義ニ之有候、既ニ斯ル機運ニ際会セシニモ拘ハラス、依然トシテ狭小ナル現在ノ公園ヲ以テ来遊者ノ満足ヲ与ヘントスルハ到底望ムヘカラサル義ニ之有、而シテ該園接続ノ近傍ハ別テ山水ノ好景ニ富ミ歴史上及ヒ美術上二関係アル古蹟ノ地モ亦タ頗ル多シ、故ニ未タ公園ノ名アラサルモ自ラ公園ニ恰好ナル性質形状ヲ具備スルモノ勘カラス、然ルニ此等ノ名所ハ年一年ニ廃頽ニ傾カントスル状況ヲ呈セリ、今ニシテ之カ維持保存法ヲ設クルニアラサレハ、遂ニ明状スヘカラサルニ至ラン、実ニ遺憾ノ次第二之有候間、現今公園地ノ彊域ヲ拡メ之ヲ接続ノ地形ニ籍リ、春日山・嫩草山・手向山・鶯滝等近隣ノ諸勝地ヲ公園地ニ取込ミ完善至美ノ一公園ヲ作成セハ、第一当地ノ人気ニ適応スルノミナラス、之二因テ益々来遊者ノ数ヲ増シ、従テ当地将来ノ繁昌ヲ進メ、第二ニハ彼ノ古来歴史上及美術上ニ貴重ノ関係ヲ有スル名勝古蹟モ自ラ永遠保存ノ方法ヲ得ル義ト確認イタシ候ニ付、前記諸名勝地ヲ公園ニ組込ミ、以テ土地ノ繁栄ヲ相図リ度候間、御聽許相成度、別紙地所明細書相添、此段上申候也、

明治二十一年七月
奈良県知事 子爵 税所 篤
内務大臣 伯爵 山県有朋 殿
農商務大臣 子爵 榎本武揚 殿

奈良県立図書情報館所蔵『明治二十七年 奈良公園改良ニ係ル書類』1894


上申書では、公園地が観光客を受け入れるにあたって「狭隘」であること、そして興福寺以外の名勝地も「公園ニ恰好ナル性質形状ヲ具備」しているにも関わらず「年一年ニ廃頽ニ傾カントスル状況」にあることの2点を理由に、公園地の拡大を打診している。これまでの上申書と異なり、明白に遊覧客の誘致がその目的にあげられているが、概ねこれまでの言説を踏襲する形で開発が計画されている。中でも各景観要素の描写については、「山水ノ好景」と「歴史上及ヒ美術上二関係アル古蹟ノ地」と依然曖昧なままであり、特に自然景観については、どの構成要素(花・樹木・芝生・水系など)が重視されているのか不透明なままである。

明治25年 公園改良委員設置 建議書

 そこで、次に紹介する明治25年の公園改良委員会に関する建議[5] … Continue readingを見てみよう。当時公園の管理は特定の部署を設けず、奈良郡長の手に一任されていたが、これを改め、有志8名による公園改良委員会の設置が提案された際のものである。ここに、当時の奈良公園の景観イメージに関する重要な手がかりを見ることができる。

奈良公園改良委員ノ儀ニ付建議
ここニ満場一致ノ議決ヲ以テ建議仕候つかまつりそうろう要領ハ、奈良公園改良ニ関シ県下ヨリ熱心篤志ノ者八名ヲ選挙シ以テもって其改良委員ノ任ヲ嘱託しょくたくセラレンコトヲ冀望きぼうスルノ旨趣ししゅ御座候ござそうろう、抑モ奈良公園タルヤ其風光明媚ナル樹木ノ欝蓊うつおうタルハ勿論、其規模ノ壮大ナルニ至テハ実ニ海内三冠絶スルモノアリ、けだしシ是レ其名声遠ク海外ニ達スル所以ニシテ、彼ノ欧米人士ノ近時続々トシテ我奈良二来遊スルモノアルハ或ハ亦タ古器物展覧等ノ為メナルヘシト雖モ、一ハ実ニ斯カル壮麗ナル公園アルニ由ラスンハアラス、故ニ其改良ヲ企ツルハ県下ノ為メ国家ノ為メ必須有要ノ事業ナリト雖トモ、若シ其改良ニシテ其方法ヲ誤マリ濫リニ樹木ヲ伐採シ徒ラニ山巓ヲ夷クル等、為メニ大ニ天然ノ美風ヲ害スルコトアランカ、後或ハほぞヲ噛ムノ悔アラン、数囲ノ樹ハ一朝ニシテ生成スルモノニ非ス、百尋ノ山ハ一夜ニシテ凸起スルモノニ非ス、豈軽卒ニ事ヲ企ツヘキモノナランヤ、是レ乃チ本会カ特ニ委員ヲ選定センコトヲ冀望スル所以ニシテ、……(以下省略)

明治二十五年九月二十三日
奈良県会議長 堀内忠司印
奈良県知事 小牧昌業殿

奈良公園史編集委員会編『奈良公園史 本編』奈良県、1982、p.160

 「壮麗ナル公園」が軽率な開発によって破壊されることを避けるために、専門の委員会を設置するべきという内容である。ここで注目すべきは、「其風光明媚ナル樹木ノ欝蓊(うつおう)タル」と、奈良公園の特長的な自然景観を具体的に描写した点である。これは奈良公園敷地が、猿沢池や興福寺境内など市街地近傍に限定されていた時代から、春日山・若草山・東大寺などを含む広大な領域に拡張した変化を反映したものと言えるだろう。

明治26年 公園改良計画 修正案

 以下、この「鬱蒼した森林景観」への評価は、奈良公園開発関係書類の随所に登場する理想風景となる。例えば明治27年、東京の造園家である小沢圭次郎による公園改修計画案[6] … Continue reading、およびそれを下敷きとした公園改修計画原案[7]前掲『奈良公園史 本編』pp.161-162。–(原案説明) … Continue readingに対し、奈良県議会から強い反発が生まれた件は、その傾向が顕著に現れた事例と言えるだろう

 以下の引用は、発足した原案修正委員10名による修正案の建議[8]前掲『奈良公園史 本編』p.163。であるが、そこにはこの「鬱蒼とした森林としての奈良公園」に対する、奈良県議会のつよいこだわりを見ることができる。

奈良公園改良二係ル諮詢案

道路ハ勿論、全体ノ地勢風光ハ従来ノまま総テ之ヲ保存シ、其旧形ニ従テ適当ノ修繕ヲ加へ、新タニ道路ヲ開鑿シ樹林ヲ伐採シ地勢ヲ変更スル事等ハ一切之ヲ禁シ、而シテ自然ノ地勢ニ従ヒ、字片岡ニ於テ一ノ瀑布ヲ設ケ、尚ホ松・杉・桜・楓ノ四種ニ限リ適当ノ場所ニ増植シテ其風光ヲ補ヒ、且ツ桜ハ吉野桜ニ限ルモノトシ、右四種類ノ外海棠かいどう花菖蒲はなしょうぶ・山吹等ノ如キ華美ナル花卉ハ如何ナルモノト雖モ之ヲ栽培スルヲ止メ、次ニ公園ノ風致ヲ害スル不潔ノ地区ニ至テハ大ニ改良ヲ加ヘ、以テ完全ノ改良ヲ計ラントスルモノニテ、為メニ金八千九百円ヲ置キ、別紙付録ノ範囲内ニテ適当ノ処置ヲ施サレン事引希望シタルモノトス、

前掲『奈良公園史 本編』p.163。


 まず「新タニ道路ヲ開鑿シ樹林ヲ伐採シ地勢ヲ変更スル事等ハ一切之ヲ禁シ」と公園の開発行為を強く否定した上で、様々な樹木を植栽し美観を整え、「公園ノ風致ヲ害スル不潔ノ地区」を除去するという点においては、従来の公園開発とほとんど変化はないと言っていい。しかし植樹に関しては「松・杉・桜・楓ノ四種」に樹種を限定し、「海棠・花菖蒲・山吹等ノ如キ華美ナル花卉」を排除している。またこの修正案については、県会議員である橋井善二郎による趣旨説明[9]前掲『奈良公園史 本編』pp.163-164。橋井善次郎は興立舎の立ち上げ人の1人でもあり、後述の『奈良名所独案内』の出版者でもある。がなされたが、「奈良公園ニハ千有余年生ヒ繁リタル巨樹喬木きょうぼくノアル有リ」「奈良公園ノ特色ハ松ノ鬱蓊うつおうタル間ニ純白雪ノ如キ桜アリ、杉ノ森々タル中ニ深紅錦ノ如キ楓アルヲ以テニシテ、是レ即チ宇内ニ冠絶スル所ナリ」と繰り返し強調されている。いずれも序章にて紹介した「伝統的な景観」を構成する樹木であり、当時の奈良県行政が奈良公園の理想的な風景として、現代的な開放感のある広場空間としての公園や、色とりどりの花によって彩られた華やかな庭園空間としての公園を目指していないことがわかるものである。

まとめ

 ここまでに紹介してきた言説をまとめれば、明治期の奈良公園における景観開発とは、①名勝旧跡の保護と補修、②鬱蒼とした森林空間の創出、③無秩序な民有地の整備、の3点に整理できる。すなわち明治期における奈良公園の景観イメージとは、この3要素を満たした「歴史ある社寺と美しい樹林で構成された伝統的・神秘的な景観」を指すものであったと言えるだろう。

 特に植生景観という点に注目すれば、今日われわれがイメージする芝生よりも、春日大社の森林に注目が集まっている点は、さらなる検証が必要なポイントといえるだろう。かつての人々にとって奈良公園らしい風景とは、現代のような明るい芝生の広がる空間というよりも、伊勢神宮の森のような、亭々とそびえる松と杉に蔽われた、鬱蒼とした神秘的な森林風景だったのである。

▼親記事

References

References
1 奈良県立図書情報館所蔵『官省御指令綴込』1876。
2 奈良県立図書情報館所蔵『明治廿一年 公園名勝地書類』1888。
3 奈良県立図書情報館所蔵『明治廿一年 公園名勝地書類』1888
4 奈良県立図書情報館所蔵『明治二十七年 奈良公園改良ニ係ル書類』1894
5 奈良公園史編集委員会編『奈良公園史 本編』奈良県、1982、p.160。同書にはその出典として明治25年9月の通常県会における「県会議事録」が挙げられているが、原本は発見できなかった。
6 奈良県立図書情報館所蔵『明治二十六年 奈良公園改修一件』「奈良公苑改修図解」1894。

千載以往ノ旧帝都山河歴々トシテ古名威ニ顕揚けんようシ、一新爾来じらいノ大公園花木寥々りょうりょうトシテ今人未タ賞賛セス、奈良明府小牧君余ニ嘱スルニ公園改修新景布設ノ図案ヲ調製スヘキ事ヲ以テス、(中略)、園方ノ訣ハ天然ノ美景ヲ運用シテ人造ノ巧工こうこうヲ補充スルニ在リ、故ニ漢土ニ借景ノ語有リ皇国ニ見越ノ称アリ、是其和漢前修カ慧眼妙思ヲ以テ天工人為ヲ湊合そうごうシテ名園ヲ経紀けいきス可キ方略ほうりゃくノ一ナリ、これニ主景ヲ画索シテ愚案ヲ起草シ、全苑ヲ三区ニ大別シテ総景ヲ四時二分賞センコトヲ要シ、乃チ毎区ニ図面ヲ製シ、毎図ニ略解ヲ附シ、画工ヲ雇テ腹稿ふっこうヲ口授シ成景ヲ浄写じょうしゃセシメ、又携来たずさえきたリシ植木職小宮孫次郎ニ命シテ草木ノ価格竹材ノ多寡ヨリ用具役夫ノ算額ニ至ルマテ部ヲ分チ類ヲ逐テ詳細ニ之ヲ調査セシメ、公園掛諸員ニ謀テ是等ノ計算ヲ一括シ、別冊預(予)算簿ヲ作リ図解ニ副ヘテ謹テ観覧ニ供ス、敢テ采(採)択ヲ望ムニ非サルナリ、
明治二十六年六月十六日 大和国奈良町菊水楼客次ニ記ス、

東京小沢圭次郎 拝具 
奈良県知事小牧冒業殿
7 前掲『奈良公園史 本編』pp.161-162。


(原案説明)
本案奈良公園ハ明治二十二年二疆城きょうじょうヲ拡張シ、其広大ナルコト日本有名ノ公園ニシテ、到ル所天然ノ風致ニ富ミタルハ言ヲ俟タストいえどモ、あまね衆庶しゅうしょヲシテ楽マシムルハ独リ天然ノ風致ノミヲ以テ足レリトナシ難ク、則チ園中荒蕪地こうぶち其他不潔ノ箇所ハ一層人巧ヲ加へ、相須あいまつテ完全ナラシメサルヲ得ス、故ニ道路ノ改修或ハ凸凹ノ場所ハ平夷へいいナラシメ、其他花樹ノ栽植等漸次改良ニ着手セシモ、如何セン、土地広漠ニシテ容易ニ全部改良ノ効ヲ奏スルコト能ハス、然ルニ従来ノ勝地・旧跡ハ数年ノ星霜ヲ経、加フルニ時世ノ変遷ニ遭遇シ、往々廃頑たいはいニ帰シ、或ハ僅カニ旧形ノ一斑いっぱんヲ存シ未タ廃滅ニ属セサルモノハ世ニ名声アルノ実ニ相反シ、一見却テ失望ノ念ヲ生セシムルノ憾ナシトセス、又公園中、嫩草山わかくさやまハ最モ著名ノ勝区ナルモ、其山麓ニ達スル道路ハ屈曲高低ノ甚タシキカ為メ、車行尤モ危険ニシテ其不便鮮ナカラス(◯十二間幅の道路新設で本予算案の眼目)、従フテ来遊者ニ対シ満足ヲ与ヘントスルモ到底望ムヘカラス、
 而シテ公園ノ良否ハただニ奈良ノ面目ニ関係アルノミナラス、延ヒテ県下全般ニ影響ヲ及スヤ大ナリ、殊ニ明治二十八年京都市ニ於テ第四回内国勧業博覧会ノ開設アリ、且同時ニ平安奠都てんと紀念祭ノ挙アルヲ以テ、多数ノ内外国人自然大和ヲ巡遊スルニ至ルヘク、此時ニ当リ公園ノ一大改良ヲ施スハ蓋シ切要ノ事業ナルヲ以テ、爰ニ両年度継続費トナシ、本年度ヨリ着手 セントスル所以ナリ、


「園中荒蕪地其他不潔ノ箇所」を改め、「道路ノ改修或ハ凸凹ノ場所」を補修し、「花樹ノ栽植」によって美観を添えることで、公園を「完全ナラシメサル」という主張の大筋は、これまでの開発史料と変わらない。前掲の『奈良公園史』によれば、こうした公園改修案に対する批判の背景には、当時の県知事である小牧知事が東京の造園家である小沢圭次郎及び東京の造園技師を高給で招聘したことへの反発があったとされている。前掲『奈良公園史 本編』より。
8 前掲『奈良公園史 本編』p.163。
9 前掲『奈良公園史 本編』pp.163-164。橋井善次郎は興立舎の立ち上げ人の1人でもあり、後述の『奈良名所独案内』の出版者でもある。