植生と都市景観に関する研究まとめ

「京都嵐山と紅葉」「大阪御堂筋とイチョウ」というように、地域のイメージが特定の植物と結びつくケースは稀ではない。本ブログで取り上げる奈良においては、 「吉野の桜」「奈良公園の芝生」などがその代表例といえるだろう。

 都市史の世界にはこういった、都市の景観イメージに対して植物がもたらす影響を分析する研究が幾つか存在する。大抵の場合こうした土地と植物が強固に結びついているときは、古代から近世にかけての詩歌や文学の影響によるものが多い。しかし中には、明治維新以降における情報メディアの発達や都市計画に起因するイメージのものも存在する。

 この記事では、こうした「都市と植生」にまつわる諸研究を整理しつつ、「奈良公園らしい風景」として芝生が定着していることの意味を考察してみよう。

「伝統的・日本的」とされた植物

  数ある樹木の中でも、「桜・楓・松・杉」の4つの樹種は、古くは万葉集の時代から親しまれてきたこの4つの樹種である。一方近代化以降の日本における都市計画や造園の世界では、これらの樹はしばし空間の「伝統性や神聖性」を象徴する植物として採用されてきたとされている。

 岡本らによる論文[1]岡本 和己、小野 芳朗「京都の桜 その戦前期の景観形成過程」『日本建築学会計画系論文集』2016、81(722)、pp.1047-1057。岡本 和己、小野 … Continue readingでは、戦前から戦後にかけての京都が市街地や嵐山に対して行った複数の桜の植樹が、「13世紀の吉野山」など景観を目標とした「伝統的な日本の景観」を目指していたことを明らかにした。

 楓も桜と同様、明治時代の日本人にとって「伝統的な日本らしい樹木」と認識されていた。前述の岡本らの論考[2]前掲04 岡本でも、楓は「平安時代の嵐山」を象徴する樹種として珍重され、街路樹の植樹でもしばし用いられた。

 また、日本における都市計画の先駆けとされる銀座煉瓦街において、桜・楓・松が街路樹として選定された事実は、白幡の調査[3] 白幡洋三郎「近代都市計画と街路樹」『京都大学農学部演習林報告』1984、56、pp.210-219。などを通じて有名であるが、明治の造園家長岡安平の調査[4]長岡安平「都市の街路樹」『祖庭長岡安平翁造庭遺稿』文化生活研究会、1926。によれば東京の街路樹の中では柳が最もよく採用されており、ついで主流であったのが桜と楓だったとされている。

 一方松の木、特にアカマツは京都の風致概念において重要なものとして位置付けられていた。その理由として造園・造林学的な視点のものに加え、アカマツという樹種の神聖性や伝統性がしばし取り上げられていたと中嶋や深町らは指摘する[5] … Continue reading

 加えて杉の木も、特に境内空間の神聖性や社殿の装飾的な樹木として位置づけられてきた。例えば畔上[6]畔上直樹「戦前日本における「鎮守の森」論」『明治神宮以前・以後 : 近代神社をめぐる環境形成の構造転換』鹿島出版会、2015。によれば、明治神宮の造園に際し、当初伊勢神宮のような針葉樹林をその理想として計画がなされていたという[7] … Continue reading。明治期において針葉樹林が「鎮守の森」の伝統性・神聖性を示すというイメージが定着していたことは、複数の既往研究[8]小野良平「用語「鎮守の森」の近代的性格に関する考察」『ランドスケープ研究』2010、73(5)、pp.671-674。小椋純一『森と草原の歴史 : … Continue readingが指摘するところである。

「西洋的・近代的」とされた植物

西洋的な芝生景観

 これに対して、「近代性」の象徴として取り扱われた植生も存在する。青々と茂る一面の芝生は、近代西洋都市が尊重した「公共空間」を視覚的に表す装置として頻繁に利用されてきた。

芝生

 日本の近代都市計画や明治の造園学において、もっぱら西洋的・近代的空間のシンボルとして扱われてきた[9]針ヶ谷鍾吉 「明治時代の洋風庭園」『造園雑誌』1 (2)、1934、pp.93-101。粟野 隆、服部 勉、進士 … Continue reading

 例えば明治29年に完成した7代目小川治兵衛による「山県有朋別邸 無鄰庵[10] … Continue reading」や、ジョサイア・コンドル設計による「岩崎久彌邸洋館[11] … Continue reading」の庭園などは、起伏に飛んだ地形に広がる芝生が印象的な西洋風庭園として有名であるが、こうした明治政財界の有力者の愛好した庭園は、一般にイギリス風景式庭園の影響を受けているとされている[12] … Continue reading

山県有朋別邸 無鄰菴(wikiより)
岩崎久彌邸洋館(wikiより)

 また、明治初期に外国人民留地に作られた公園である彼我公園(横浜公園)[13]堤 久雄 「横濱市に於ける公園の起源とその變遷」『造園雑誌』 1939、6(1)、pp.13-25。や東遊園[14]河合 健「明治の「異化空間」・神戸東遊園地公園」『造園雑誌』1990、53(5)、 pp.61-66。、そして日本における近代的な都市計画思想に基づいた公園の草分けとして知られる日比谷公園[15]白幡洋三郎 「 近代化のなかの「公園」」『近代都市公園史の研究―欧化の系譜』思文閣出版、1995。など、西洋由来の造園技術を色濃く反映したとされる公園においても、芝生は頻繁に導入されていることが確認されている。

日比谷公園

 無論、芝生は必ずしも前近代の日本に存在しなかったわけではない。明治以降に輸入された「セイヨウシバ」に対し、日本には「ノシバ」「コウライシバ」などの在来種も存在する(ちなみに奈良公園の芝は「ノシバ」である)。また、現存する最古の庭園書である『作庭記[16]林屋辰三郎校注『作庭記』《リキエスタ》の会、 2001。』に芝生に関する記述がある他、武士たちの社交の舞台として芝地が機能していた大名庭園[17]白幡洋三郎『大名庭園 江戸の饗宴』講談社選書メチエ、1997。など、前近代においても芝地の利用自体は確認されている。

 とはいえ、一般に日本の造園学・景観学においても、「芝生≒近代と西洋を象徴する植物」という見方が一般と言っていいだろう。

まとめ

 庭に花樹を植えるときは、だれしも「その庭や家」の雰囲気に合わせた植物を植えるだろう。和風庭園に何百本ものバラの花を育てたり、カントリー風な玄関に竹林を設けることはまずしない。そしてこうした感性は、都市計画レベル・学問レベルの世界にも存在するのである。近代日本の元勲や建築家たちは、西洋的な都市の造成を必死に吸収し日本の西洋化を促す一方で、たとえ僅かであっても「日本的な」植物を植えることで国家としてのアイデンティティを保とうとしたのかもしれない。

 一方でこうした植物のもつイメージとは、必ずしも絶対的・普遍的なものではない。ときに床の間生けられた一輪のバラが、絶妙なアクセントとなって室内に調和するこもあるように、「和風な植物」「洋風な植物」という固定観念を打ち破ることも、空間をしつらえる楽しみの一つである。

 大規模な芝生の公共空間が広がる伝統都市というのは、その一つと言えるだろう。奈良公園が訪れるものの心を捉える理由の一つは、穏やかな風景でありつつも予定調和を打ち破るような研ぎ澄まされた感性を有しているからなのかもしれない。

▼親記事

References

References
1 岡本 和己、小野 芳朗「京都の桜 その戦前期の景観形成過程」『日本建築学会計画系論文集』2016、81(722)、pp.1047-1057。岡本 和己、小野 芳朗「京都市街地と郊外嵐山の植栽景観の形成過程における価値付けの実態―戦後期のサクラ・マツ・カエデを事例として」『日本建築学会計画系論文集』2017、82(732)、pp.555-565。
2 前掲04 岡本
3 白幡洋三郎「近代都市計画と街路樹」『京都大学農学部演習林報告』1984、56、pp.210-219。
4 長岡安平「都市の街路樹」『祖庭長岡安平翁造庭遺稿』文化生活研究会、1926。
5 中嶋節子「昭和初期における京都の景観保全思想と森林施業」『日本建築学会計画系論文集』、1994、59(459)、pp.185-193。深町加津絵・奥敬一・熊谷洋一「嵐山国有林における昭和期以降の風致施行の展開」『日本林学会論文集』1998、109、pp.211-214。
6 畔上直樹「戦前日本における「鎮守の森」論」『明治神宮以前・以後 : 近代神社をめぐる環境形成の構造転換』鹿島出版会、2015。
7 その後この公園構想は東京という立地的要素から不可能であるという指摘が造園学者よりなされ、現在のような常緑広葉樹林の形成へと舵を切ることとなる。前掲 畔上参照。
8 小野良平「用語「鎮守の森」の近代的性格に関する考察」『ランドスケープ研究』2010、73(5)、pp.671-674。小椋純一『森と草原の歴史 : 日本の植生景観はどのように移り変わってきたのか』古今書院、2012、pp.256-335。
9 針ヶ谷鍾吉 「明治時代の洋風庭園」『造園雑誌』1 (2)、1934、pp.93-101。粟野 隆、服部 勉、進士 五十八「明治期東京における庭園空間の成立と構成」『ランドスケープ研究』65(5)、2001、pp.379-382。
10 無鄰菴については尼崎が「ともかくも山縣は、芝生の持つ明るさと開放性に惹かれたようである。それは田園のイメージと重なっていく。欧米を広く見聞してきた彼の頭の中では、あるいは、イギリス風景式庭園のイメージが重なっていたのかもしれない。」と評している。尼崎博正『植治の庭−小川治兵衛の世界 』 淡交社、1990、p216、もしくは尼崎博正『七代目小川治兵衛:山紫水明の都にかへさねば』ミネルヴァ日本評伝選、2012を参照。
11 岩崎久彌邸の芝庭については、小口・大塚らが「イギリスを期限とするヨーロッパの風景式庭園を理想として想定したもの」としている。小口健蔵、大塚正治 『旧岩崎邸庭園 』 東京都公園協会、2005、p81。
12 ただし村岡は、こうした庭園とイギリスの風景式庭園の造形手法やモチーフの差異、さらに山縣や岩崎が渡欧した時期とイギリス風景式庭園の最盛期にずれがあることなどを理由に、「イギリス風景式」の影響を受けたとする考えに疑問を示している。村岡 香奈子「明治期の庭園におけるイギリス風景式庭園の影響」『日本庭園学会誌』2011、25、pp.31-39。
13 堤 久雄 「横濱市に於ける公園の起源とその變遷」『造園雑誌』 1939、6(1)、pp.13-25。
14 河合 健「明治の「異化空間」・神戸東遊園地公園」『造園雑誌』1990、53(5)、 pp.61-66。
15 白幡洋三郎 「 近代化のなかの「公園」」『近代都市公園史の研究―欧化の系譜』思文閣出版、1995。
16 林屋辰三郎校注『作庭記』《リキエスタ》の会、 2001。
17 白幡洋三郎『大名庭園 江戸の饗宴』講談社選書メチエ、1997。