奈良公園成立前史

明治13(1890)年に開設した奈良公園、その誕生経緯について概略する。

 近世における奈良の観光都市化

 中世末期の『南都八景』が代表するように、現在奈良公園と呼ばれる一帯は国内有数の名勝地としても知られ、都が平安京に移った後も興福寺・春日大社・東大寺といった社寺勢力によって栄え続けた[1]以下、中世から近世にかけての奈良の観光地化については、奈良公園史編集委員会編『奈良公園史 本編』1982,前編第2章から第4章による。

 近世に入ると宗教勢力の支配力は低下したが、交通の要衝ようしょうや巡礼の通過点としての繁栄は続いた。江戸時代には、西国巡礼や伊勢参宮の広まりを受け奈良の見物人はさらに増加し、街道や宿場が整備され茶屋や名産品の店、芝居小屋や見世物小屋が繁盛した。特に元禄5(1692)年の東大寺大仏開眼供養や宝永6(1709)年の大仏殿落慶法要に際しては、それぞれに20万人を超える見物人が集まったとも言われている。このころ、『和州南都之図(1666年)』『和州寺社記(1666年)』、『南都名所集(1678年)』、『奈良名所八重桜(1678年)』『大和名所記(1681年)』『南都名所道筋記(1684年)』、『改正絵入南都名所記(1774年)』『和州南都絵図(1778年)』など、立て続けに奈良の案内図が続出したことも、遊山気分の参詣人が増加したことを証明していると言えよう。

 当時は「観光」という言葉こそ存在しなかったが、今日の観光都市としての奈良は、中世から近世にかけてすでに形成されてきたのである。

廃仏毀釈により衰退する興福寺

 そんな奈良の近世が終りを迎えたのは、神仏分離令や上知令に伴う社寺の荒廃からであろう[2]以下、近代奈良の社寺荒廃については、奈良市史編集審議会編、『奈良市史 通史四』、吉川弘文館、1995、pp.29-38による。。春日大社と一体となり、江戸時代は2万1000石の朱印を与えられ保護された興福寺だが、慶応4(1868)年に出された神仏分離令に伴う廃仏毀釈の嵐によって大きな打撃を被った。さらに明治4年には政府による上知令が出され、境内地を除く全ての社寺領の没収が命じられた。東大寺や唐招提寺をはじめとする大寺は、田畑山林からの収入を失いさらなる大打撃を被った。

 特に興福寺は、旧一乗院門跡邸が借用という名目で没収され県庁に当てられたこと筆頭に、その所有地の官衙街かんががい開発が進められた。子院はすべて廃止され、境内を取り囲む塀は取り払われ、僧の多くは還俗し春日大社神職についた。明治5年9月、奈良県は教部省から興福寺を廃寺とする指令を受け、名実ともに興福寺は解体された。

工業化に適さない地形的要因

 興福寺という母体を失い喪失感に包まれた奈良であったが、その衰退は社寺のみでは済まなかった[3]以下、奈良市の産業衰退については、前掲『奈良市史 通史四』pp111-112による。。全国の都市が殖産興業に邁進し近代都市へその方針を転換する中、大規模な河川や港湾を持たず、これといっためぼしい産業を持たない奈良は、商工業化への手がかりさえ掴みあぐねていた。当時の奈良の様子を『日新記聞』第号10(明治5年9月)は

往古おうこヨリ布さらし筆墨等ニテ生活ノ基本トナセシカ近年布さらし大ニ衰へ筆墨モ従前ト霄壌しょうじょうス……唯たのム所ハ春日大仏ノ諸勝ニテ 

『日新記聞』第10号 明治5年9月

と描写している。かつて一世を風靡した奈良晒にその面影はなく、わずかに残存する筆と墨の生産も奈良県復活に向けた起死回生の一手となる程の力はない。

 この状況に追い打ちをかけるがごとく、明治9年4月、奈良県は隣接する堺県に吸収合併される[4]以下、奈良県の統廃合については、前掲『奈良市史 通史四』pp80-83、p88、p101による。。かつての奈良県庁舎には奈良区裁判所が設置され、県の中心は堺県に移る。堺県は大和・河内・和泉を管轄することとなり、相対的に奈良は堺県の中心から遠のき、中心市街地から山一つ隔てた辺境の地であることを余儀なくされる。藤田文庫「奈良雑稿」では、町家が取り壊され、その残骸がうず高く積み上がり、人影が消え雑草が生い茂る、明治11年ごろの京街道の様子がえがかれている。『郵便報知新聞』(明治9年7月13日)は「奈良廃県後は街上さらに不景気」として奈良の衰退を描写した。誕生からわずか四年で堺県に吸収された奈良県であったが、その後5年も経たない明治14年、今度は堺県が大阪府に合併される。奈良県が再び独立した県として設置されるのは、明治20年11月4日公布の「勅令第五九号」をまたねばならなかった。

名勝旧跡を活かした観光開発と奈良公園

 社寺という屋台骨を失い、殖産興業化の希望もない。手足をもがれたかの如きハンデを背負い近代を迎えた奈良町にとって、残された数少ない生き残りの手段は、名所旧跡古美術の宣揚と遊覧客の誘致、すなわち観光都市化であった[5]以下、古美術の称揚や博覧会については、前掲『奈良市史 通史四』pp72-76による。

 明治5年、「古器物保存」の太政官布告に基づき、東大寺正倉院の調査が行われる。この調査は翌6年に東大寺真言院を会場に開催された、大和諸寺諸家の所有する古美術骨董を出陳する展覧会の布石となった。この展覧会の盛況を受け、さらに翌7年東大寺龍松院に博覧会運営を司る奈良博覧会社が設立される。以降、明治8年から明治23年に至るまで15回の博覧会が催され、会場である東大寺伽藍には正倉院宝物を始めとする数々の貴重な工芸品が展観された。現在奈良国立博物館で年一度開催される「正倉院展」の走りとも言えるだろう。出品の際には宝物の調査と複写・模造品作成が義務付けられた。これは博覧会の開催は後の帝国博物館設置の基礎作業の意味を果たしており、同時に奈良県が有する漆工・金具工・彫刻などの工芸復興にも寄与するものであった。

 さらに明治17年、奈良の古美術に追い風が吹く。東京大学教授米国人フェノロサが堂塔や宝物の調査のために奈良を訪れた。彼はその後も18年、19年、21年と毎年のように奈良の地を訪れた。特に明治21年には浄教寺を会場として「奈良の古美術」と題する講演会の壇上に立ち、奈良の古物を称揚した[6]前掲『奈良公園史 本編』pp72-76による。。そして、古美術への注目が集まる一方で、荒廃した社寺の復興や名所旧跡の復活も大きな課題となる。名勝地の保存と活用にむけて重要な役割を果たしたのが、本論で議論の対象となる奈良公園であった。

奈良公園の誕生

 明治初頭の奈良町は、荒れ放題のまま放置された旧興福寺境内の整備が急務であり、同時に遊覧客へ不当に商品を売りつけるために地元商店と結託する悪質な案内業者の増加も大きな課題となっていた[7] … Continue reading。そこで、有志の奈良町民たちが出資を募り、興福寺境内の整備と観光案内の健全化を図る民間団体「興立舎こうりつしゃ」の設置が推し進められていたのである[8]以下「興立舎」の活動から公園の創始については前掲『奈良公園史 本編』一章から五章を参照。

 堺県合併後の明治10年12月、奈良町民は当時官有地となっていた旧興福寺境内の十カ年に渡る拝借願を上申した。旧境内の復興と興立舎こうりつしゃの活動拠点がその目的である。この申し出は堺県としても歓迎するものであり、翌年1月に即時認可された。この時の拝借地が奈良公園の前身となる。奈良公園の萌芽は、奈良町民の手によって育まれたものであった。

 明治12年、堺県は興福寺旧境内と猿沢池附近、及び春日野を含む4万4092坪を公園地として確定する旨を内務省に上申し、翌13年2月に伊藤博文の名の下認可された。先の興立舎が拝借した土地を太政官公園として上書きする形での設置である。今日の奈良公園と比較すれば極めて狭隘きょうあいなものであり、この時点では敷地内に山林も含まれていない。その維持管理は大阪府に合併された後も含め引き続き興立舎によって行われたが、次第に公園管理は明治16年頃から奈良郡長の管理下となる。また、後に奈良公園敷地となる若草山、春日野、雲井阪などが名勝地として申請され、いずれも認可された。

 そして明治20(1887)年11月、奈良県が大阪府から独立する。この再設置を祝すが如く、明治21(1888)年8月に奈良公園は周辺の社寺や官林名勝地を取込みその敷地の拡張が図られた。編入されたのは春日山(一部除く)・大谷山・若草山・花山・芳山・鎌研山・手向山などの広大な官林、春日野・雲井阪・浅茅ヶ原などの名勝地、東大寺手向山八幡宮・氷室神社・天神社・瑜伽ゆうが神社などの社寺など広範囲に及び、翌22年3月には新しい奈良公園地1506町8たん4歩が告示された。

まとめ

 「公園」という概念は明治に入り西洋から輸入されたものである。当時の日本人にとって「公共空間」という概念は馴染みの薄いものであり、強いて言えば社寺の境内が日本人にとっての「公園」であった。明治維新を経て近代化に邁進し始めた日本は、その当初寺院建築や仏教美術を「非近代的なもの」として破壊してしまったが、それが西洋人の言う「ぱぶりっくすぺーす」なるものであったのだから皮肉なものである。

 結局、明治の日本にとって「公園を作る」とは、一から設計する行為ではなく、廃退した社寺地を保護する行為になってしまった(現代風に言えば「公園に指定=景観保護地区に指定」のようなものだったらしい)。奈良公園に限らず、1900年以前に日本に誕生した公園の殆どは、かつて神社仏閣だった土地を公園と言い張っているだけのものに過ぎないのである。憩いの空間としての公園が日本に登場するのは、明治36(1903)年開設の日比谷公園(設計:本多静六)を待たねばならなかった。

References

References
1 以下、中世から近世にかけての奈良の観光地化については、奈良公園史編集委員会編『奈良公園史 本編』1982,前編第2章から第4章による。
2 以下、近代奈良の社寺荒廃については、奈良市史編集審議会編、『奈良市史 通史四』、吉川弘文館、1995、pp.29-38による。
3 以下、奈良市の産業衰退については、前掲『奈良市史 通史四』pp111-112による。
4 以下、奈良県の統廃合については、前掲『奈良市史 通史四』pp80-83、p88、p101による。
5 以下、古美術の称揚や博覧会については、前掲『奈良市史 通史四』pp72-76による。
6 前掲『奈良公園史 本編』pp72-76による。
7 こうした露店と案内人が結託し不当にサービスを提供する行為は「ロキ」とよばれ、奈良公園長年の課題となった。前掲『奈良公園史 本編』pp112-113参照。
8 以下「興立舎」の活動から公園の創始については前掲『奈良公園史 本編』一章から五章を参照。