目次
本章で利用する史料
奈良県立図書情報館に眠る膨大な奈良公園開発関連史料の内、公園平坦部の芝生に対する記述が確認できた戦前の史料は、わずかに
- 『明治30年起 公園・運動場・名勝・旧蹟等調査一件[1]奈良県立図書情報館所蔵『明治30年起 公園・運動場・名勝・旧蹟等調査一件』1927。』
- 『昭和7年 通常奈良縣會會議録[2]奈良県編『昭和七年 通常奈良縣會會議録』1934。』
- 『奈良県政調査[3]奈良県編『奈良県政調査』1937。』
の3つであった。
1つ目の『明治30年起 公園・運動場・名勝・旧蹟等調査一件』は、明治30年から昭和2年にかけて作成された、県内の公園施設に関する調査を束ねた簿冊である。奈良公園はもちろんのこと、吉野公園や各種名勝旧蹟の調査に加え、計画されていた大公園候補地に関する史料も含まれている。本論で取り上げるのは、大正8年と大正10年に行われた県内の公園に関する悉皆調査書類であり、そこには奈良公園の一部空間に芝生が広がっていたことが読み取れる記述が残されている。
次に取り上げるのは明治34年から昭和24年までの間に作成されてきた『通常奈良縣會會議録』の昭和7年版である。奈良県立図書情報館に所蔵されている戦前の通常県会会議録は『明治34年』『明治39年』『大正8年』『大正14年』『大正15年』『昭和3年』『昭和4年』『昭和5年』『昭和6年』『昭和7年』『昭和9年』『昭和11年』『昭和14年』の13冊(臨時会議、古文書を除く)であるが、その中に園内芝生と保護を巡る議論が登場したケースを一例だけ確認できたので、それを取り上げる。
最後に、『奈良県政調査』について述べる昭和12年(1937年)、日中戦争の開戦を尻目に国内のツーリズムは衰える様子をみせず、奈良県は来たるべき紀元二千六百年記念事業にむけて観光課を設置した。同年、奈良県は大規模な県政調査を実施し、県内の魅力と課題を分析し、さらなる県内産業の発展と拡大を訴えた。同調査には奈良公園も取り上げられており、当時の現況と改良計画方針が具体的に記されている。奈良公園にとってはこれが、戦前における最後の公園改良計画であり、また奈良公園の芝生開発を企画した最初の計画でもあった。
以上の文献を精査し、当時の公園行政にとって園内の芝生がどのような植生・景観構成要素として位置付けられていたのかを明らかにする。
公園行政による芝生の評価と利用
すでに前章にて確認したとおり、戦前の奈良公園開発を巡る議論は「道路網などのインフラ整備・山林経営による財源確保・近代的な公園施設の充実」の3点を軸に進められており、公園の芝生景観はその対象ではなかった。
しかし奈良県立図書情報館が所蔵する膨大な公園開発史料の公文書中には、部分的に公園の芝生について言及し、その魅力を活かそうとする動きも徐々に現れ始める。本節では、奈良公園に関する各種公文書史料から芝生景観について言及したものを取り上げ、公園の景観構成要素における芝生の位置付けが変化していく過程を分析する。
公園・運動場・名勝・旧蹟等調査一件
大正8(1919)年に作成された『公園・運動場・名勝・旧蹟等調査一件』に収録された下記の記述が、筆者が確認した範囲における、公園内の芝生景観を評価する最初期の文章である。
奈良県立図書情報館所蔵『明治30年起 公園・運動場・名勝・旧蹟等調査一件』1927
園内ノ一般景観園ノ東方ニハ蓊鬱タル春日山温乎タル嫩草山(今俗二三笠山ト称ス)ト相竝二山麓ニハ春日、手向、神祠、興福、東大ノ堂塔其他ノ祠宇老杉古松ノ間ニ點在シ賽者ヲシテ千年ノ昔ヲ偲バシメ、廣漠タル空地ニハ繊草芊綿翠氈ヲ敷クカ如ク幾千ノ春日ノ神鹿優々トシテ散遊シ神韻云フ可カラス。若シ夫レ春候猿澤池畔ニ櫻花ヲ賞シ夏時鶯瀧ニ涼ヲ納レ秋氣瀧阪ノ楓葉ハ歌ヲ詠シ、冬ハ浅茅ヶ原ノ原頭ニ雪中ノ梅ヲ探クルヲ情趣ニ至リテハ四時遊客ノ常ニ嘆賞スル所ナリ。(中略)斯クノ如ク天然ノ景勝ト人工ノ妙ト相映発シタルト廣濶ナルトハ蓋シ東洋唯一ノ大公園タルニ耻チサルナリ。以上
これは、大正8(1919)年より行われた、県内における「運動園又ハ公園類似ノ施設」を対象とする調査書類である。調査項目は「一、公園名稱」「二、所在地並ニ交通」「三、面積」「四、設計者及建設年月」「五、管理者及維持方法」「六、土地所属」「七、公園池の由緒來歴」「八、園内ノ一般景観」の8項目であり、上記の文章は8番目の項目の一部である。「廣漠タル空地ニハ繊草芊綿翠氈ヲ敷クカ如ク」とあることから、あくまで公園の主役は山林や寺社建築であり、芝生はその合間を埋める端役としてのみ描かれている。本調査では奈良公園に加え、吉野公園や橿原神宮、その他各種名所旧跡が調査され、その結果は本多静六の門下生である東京府立園芸学校の野間守人(のまやすひと)へと送られた。野間は後に『理想の庭園及び公園』を刊行することになるが、本調査もその執筆の一助になったと考えられる。
また大正10(1921)年にも、類似の調査が実施された。詳細な経緯は不明であるが、奈良県は奈良公園を凌ぐ「大公園」の設置を目論んでいたらしく、県内の公園施設を再度調査している。調査結果は同簿冊に収録された。
奈良県立図書情報館所蔵『明治30年起 公園・運動場・名勝・旧蹟等調査一件』1927
・園ノ特徴
平坦部公園ニ於イテハ、至ル所寺院ノ古建造物ト、千古ノ巨樹聳立セルト櫻楓其他花樹ヲ按配シ、樹間ニ動物舎ヲ設ケ、四時遊覧者ノ行樂ニ供ヘ、又青年児童及地方團体ノ運動ニ供へンガ為、大運動場ヲ設ケ、其他園内道路外空地全部翠氈ヲ延ベタルガゴトキ芝生ナルヲ以テ、随所ニ児童ノ遊戲二適ス。山林部ニ属スル……(後略)
「其他園内道路外空地全部翠氈ヲ延ベタルガゴトキ芝生ナル」とあり、大正8年の調査と同じく芝生を公園の残余空間を彩る植栽として位置付けている。ただしこちらの場合「動物舎[4] … Continue reading」「大運動場」が取り上げられる他、芝生空間を「児童ノ遊戲二適ス」と評しており、奈良公園の近代的な側面にも光が当てられている。
昭和7年 通常奈良縣會會議録
次に取り上げるのは、昭和7年における通常奈良県会会議に収録された、「議題十五號 昭和八年奈良縣奈良公園費歳入歳出豫算」に関する応答である。質疑の内容は、奈良公園山林経営の方針や園内の開発行為に対する牽制の色を帯びた追求が例年のことであったが、その最後に園内の芝生に関して以下の通りの諮問がなされた。
◯二十四番(丘本竹次郎君)
奈良県編『昭和七年 通常奈良縣會會議録』1934
……それから常に私の見受ける所でありますが、この公園の芝生の隅々に入つて宜しいのか惡いのか分らぬやうな柵が施してあります、之を私が見ますときに、入つて宜しいのかどうか分からぬやうな策ならば寧ろ撤廢してしまつた方が公園を自然的に見、廣く見、公園が優美に見えるやうに私は思ふのであります殊に芝生が浮島にならずに、人が歩く方が宜しいかとも考へて見たりしますが更に都會から奈良公園に御出になる人々が、都會煩雑な所で「アスファルト」の道を踏んで固い感じを持つて歩いて來た人が、一度奈良公園に入つて、あの芝生の上を歩いて、身の浮き立つやうな氣分に浸る、斯う云ふやうなことが一つの公園として樂しむ問題ではなからうか、斯う云ふことを考へます時に或は柵のやうなものは撤廢なさる意思があるや否や、斯う云ふやうなことを一應お伺ひして置きたいと思ひます。
質問の内容は園内に設置された柵の意図を確認するという他愛のないものである。発言によれば「入つて宜しいのか惡いのか分らぬやうな柵」とあることから、高さを抑えた頼りないフェンスが、園内に断続的に立ち並んでいたのであろうか。ともかく丘本は、こうした柵をむしろすべて撤廃し芝地を公園の魅力として開放することを提案している。公園管理を取り仕切る坂田公園課長も、この主張には辟易しない。
◯番外三番(公園主事坂田靜夫君)
奈良県編『昭和七年 通常奈良縣會會議録』1934
……それから柵のお話でありますが、これは元柵はありませぬでございましたが、六年前あたりから、柵がないと通行人が道を通らずに一直線にそこを通る、通勤人のやうなものは毎日同じ道を通るのでその結果あの中に中央に歩道が出來まして、第一私等のねらつて居りますのはさう云ふお方々の御入りになるのを防ぎたいと云ふことであの柵を造つて置いたのであります、幸ひ武徳殿の前あたりは元よりはずつと芝生が良くなつて居りまして、さう云ふ道も消えてしまつて居る實情で御座います、奈良公園は芝生に遊覧客を入れると云ふのが一つの特長でございますので、之を高い柵をして踏ませないと云う事は、都會の人が奈良に來て遊ぶ樂みを殺ぐやうにも思はれますので、實に不徹底でありますが、さう云ふ人たちには御入りになつても咎めないで置く、下駄履きだけは、これは制札を設けて入れないやうにしてありますけれども、一般の人だけあそこで遊ぶやうな人はその數も少ないし許して置く、唯始終あそこの道が近いから通ると云ふやうな人の豫防としてあヽして居るのであります、さう云ふ譯でございますので、實に不徹底のやうでありますが、不徹底の所に味があると思ひますので、左様御承知を願ひます。
設置された柵は、不必要に踏まれることで正規のものではない歩道が生まれることを防ぐためのものであり、しかしそれは必ずしも芝生への侵入を禁止するものではないと言う。文中にある「武徳殿の前あたり」というのは、興福寺境内のうち博物館敷地に隣接する範囲(エリア④)のことと思われるが、なるほど近鉄奈良駅から奈良公園にかけての往来の激しい一帯であり、芝生の部分的な保護が必要なのも頷ける話である。 この後、芝生に対する議論は引用箇所以上続くことはなく、議会は次の「議題十六號 昭和八年奈良縣吉野公園費歳入歳出豫算」へと流れていった。公園行政全体を見れば些末な確認に過ぎないこの一連の議論は、しかし当時の行政が公園の芝生をどのように認識していたかを捉える数少ない手がかりとなる。ここでは両者とも奈良公園の芝生を「実際に歩いて楽しむことができる空間」として高く評価しており、特に坂田公園課長は「奈良公園は芝生に遊覧客を入れると云ふのが一つの特長でございます」とさえ発言している。
県政調査
最後に、1937年の県政調査を見ていこう。本調査では、「11章 観光」の項目とは別に「12章 公園」の項目を設けており、その運用・開発上の課題と目標が細かく記されている。
第十二章 公園
第一節 奈良公園
(三)改良計画
本公園ノ雅趣ハ天下ニ卓絶シ名勝地トシテ指定セラレタルハ当然ト謂フベク、而シテ本公園ハ他ノ近代的公園ト異リ、本公園本来ノ特徴アリ、即チ他ノ模倣ヲ許サンル古典的ニシテ雄大ナル自然美之ナリ、故ニ之ガ管理ニ当リテモ特ニ意ヲ此処ニ用ヒ、極力人為的加工ヲ排シ、大自然保護ニ努ムルハ勿論、益々此特異性ヲ発揮スベキナリ、而シテ之ガ実現方法トシテ左ノ諸点ヲ改良計画トシテ樹立シタリ。
(A)公園隣接民有地ノ買収
公園内二介在シ又ハ隣接スル民有地ニシテ買収ヲ要スベキ場所ハ数多アルモ、特二必要ナル部分ハ成ベク早ク之ヲ買収シ公園地二編入セントスルモノナリ、而シテ其ノ個所ヲ列記スレバ左ノ如シ
一 本市唯一ノ貴賓宿所タル奈良ホテルノ目前ニ横タハル雑草弥蔓セル荒廃地ハ風致保持上之ヲ買収シ、現存セル陋屋ハ撤去シ、之二代フルニ芝、松其ノ他風致樹ヲ植栽シ逍遙道ヲ敷設セントス。二 若草山麓ノ民有保安林ヲ買収スルノ要アリ、現在ノ若草山麓道路ハ遊覧期ニ至レバ、諸車輻輳シ自動車ノ通行危険ナル状態ニ鑑ミ、該道路ヲ遊歩道トナシ買収地ニ新タニ道路ヲ開鑿シ、自動車専用道ニ充テントス。
三 公園中景観最モ良キ飛火野二隣接スル土地ヲ買収スルノ要アリ、該土地ハ現在荒廃地トハ云へ芝・薄等存シ、現ニ公園地同様ニ利用セラレ散策スル者勘カラズ、又飛火野ョリ本買収予定地ヲ眺ムルトキ眺望雄大佳良ニシテ、若シ将来土地所有者ニ於テ該地・家屋其ノ他ノ工作物等ヲ新設スルトキハ公園第一ノ景観地ノ風致ヲ損ズルコト甚大ナルヲ以テナリ。
奈良県編『奈良県政調査』1937(太字強調は筆者による)
(以下省略)
まず公園の特徴として「本公園ハ他ノ近代的公園ト異リ、本公園本来ノ特徴アリ、即チ他ノ模倣ヲ許サンル古典的ニシテ雄大ナル自然美之ナリ」と評しているほか、改良の方針には「極力人為的加工ヲ排シ、大自然保護ニ努ムル」と掲げており、ここまでは従来の開発計画と同様の姿勢を示している。だが、ここで取り上げている「雄大ナル自然美」や「大自然保護」とは、具体的にどのような自然なのであろうか。これまでの議論を踏まえれば奈良公園における自然美とは、「杉と松による幽玄で鬱蒼とした森林景観」にほかならず、故に奈良県は明治期から大正期にかけて、大量の植樹を奈良公園に施してきた。
しかし、今回の県政調査における「自然」とは、必ずしも公園の神聖性や伝統性を強調するものに限らなかった。例えば『奈良ホテルノ目前ニ横タハル雑草弥蔓セル荒廃地』に対しては、その買収後に『芝、松其ノ他風致樹ヲ植栽シ逍遙道ヲ敷設』するとあり、張芝が風致を整える手段として初めて掲げられている。また『現在荒廃地トハ云へ芝・薄等』が存在する飛火野周辺の民有地について『飛火野ヨリ本買収予定地ヲ眺ムルトキ眺望雄大佳良』とこれを賛美し、その芝生の風景を『公園第一ノ景観地ノ風致』として保護するように指示がなされている。
芝生を植栽は、これまでの公園改良計画には登場しなかった行為である。結果的に芝生化の計画は戦後の整備計画まで棚晒しの憂き目に合うが、これもまた奈良公園における「自然美」「風致」の意味が大きく変わり始めていることを示す一例と言えるだろう。
結論
以上、公園開発主体にとっての芝生景観の位置付けを分析してきた。大正期には残余空間を埋める程度の役割であった芝生景観が、時代を経るに従って柵やフェンスによって保護されるべき特異な風景として認識されはじめ、さらに昭和10年代には積極的に拡大するべき空間としてその評価を高めていく様子が、おぼろげながら浮かび上がってきた。
References
↑1 | 奈良県立図書情報館所蔵『明治30年起 公園・運動場・名勝・旧蹟等調査一件』1927。 |
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↑2 | 奈良県編『昭和七年 通常奈良縣會會議録』1934。 |
↑3 | 奈良県編『奈良県政調査』1937。 |
↑4 | 動物舎は本多静六の講演会にも取り上げられたとおり、植物園・運動場と並ぶ奈良公園近代化を象徴する建造物の一つであるが、その詳細は設置時期・位置なども含めて不明である。 |