目次
【戦後】芝生景観の完成とその背景
芝生景観は、いつから生まれたのか
その後、昭和33年の「奈良公園整備計画案」を基にした戦後の一連の整備事業によって、奈良公園の芝生景観は整備され、今日に至った。この完遂は、昭和63年のなら・シルクロード博後の整備事業まで続くことになる。
では結局、現在の風景(すなわち登大路・春日野・浅茅ヶ原・飛火野といった一帯が芝生に覆われた風景)が完成した時期はいつからなのだろうか?この事業以前における芝生の積極的な開発行為が確認できなかった以上、また、近代以前にはこれらの土地の大部分が田畑であった以上、奈良公園の芝生景観の成立は「昭和末期」とするのが、一つの回答となるだろう。
しかしこの答えは、あまりにも色気のない返事である。確かに園内の芝生が公的に整備され始めたのは戦後のことである。だが奈良公園の芝生は早ければ明治の後半には既に発見されていたし、遅くとも大正期には行政・観光業者・文化人といった多様な属性の人々が、その風景を多様な筆致で描出しているではないか。であるならば芝生景観の成立時期を「明治末期から大正にかけて」であると結論づけたとしても、不適切とはいえないだろう。
とはいえ当時の奈良公園には、登大路には図書館が、春日野にはグラウンドが建設されており、さらに飛火野も陸軍の演習場として利活用されていた。さらにそれ以前の時代に遡れば、土地の管理が近代ほど一元的でなかったことから、より一層錯雑とした景観を呈していたと考えられる。現在の奈良公園が見せる自然景観に比べて、人工物・夾雑物の混じる景色だったことは否めないだろう。前述の通り、古今和歌集の頃にはすでに春日野や飛火野に草原や若草のイメージが
以上が「奈良公園の芝生はいつ頃生まれ、どのようにして奈良公園らしい風景として定着したのか?」という質問に対する筆者の解答である。定着していたことも確かであるが、それを根拠に奈良公園の芝生の歴史を1300年にさかのぼって主張することは、やはり難しいだろう。
結論、そして新たな問い
が、どうにも煮え切らない結論である。仮に奈良公園の芝生景観が特定の組織や開発主体による発案で生まれた風景ではないのであれば、あの景観は20世紀初頭に突如人為的な介入なく生まれた眺めであるということになる。身もふたもない言い方をすれば、筆者は芝生景観の形成が「自動的に生まれた」と主張しているに等しい。
無論、奈良県の戦前における一連の開発行為が、芝生景観の形成に全く影響を与えていないとは考えがたい。既説の通り、奈良県が張芝作業を実際に行なったのは戦後のことであり、県は芝生景観の直接の生みの親ではない。しかし公園行政は明治14年の奈良公園創設以来、意欲的にその面積を拡大し、隣接する土地の管理を一元的に掌握してきた。買収した公園地には、帝国博物館、奈良県庁、奈良倶楽部、奈良離宮、戦捷記念図書館、荒池・鷺池、春日野グラウンドといったあらゆる近代的な施設の建設と解体が進められたが、一連の開発行為はこれまで園内に存在しなかった残余地・空白地・解体跡地・建設予定地を生み出すこととなる。開発と保存を巡る議論の中で中に浮いていた公園の余白が、のちに芝生が生まれる区画となることを考えれば、民有地買収がひと段落した大正期に芝生景観が増加したことにも納得がいく。結果論に過ぎないが、もし公園行政の活動が奈良公園の在りし日を留める復古主義にばかり囚われていたとしたら、今日の開放的な好景はありえない物だったに違いない。
しかし一般に芝生景観とは、種子を撒けば手軽に作れる風景ではなく、水・肥料・日光の十分な確保や継続的な芝刈りなど、むしろその保守・維持に莫大なコストの掛かる植物である。公園行政の主体的な開発なしに芝生景観が生まれ、それが人々に親しまれるという不可解な事態が、本当に発生しうるのであろうか。また発生するのだとすれば、なぜそれが「大正期から昭和期」という時期において発生したのであろうか?
芝生景観の形成過程に関する考察
この奇妙な倒錯の背景には、奈良公園独特の生態系、有り体に言えば「シカ」の存在が関係している。すでに植物学に関する既往研究[1]『奈良市史 自然編』pp.194-197。北川尚史『奈良公園の植物』トンボ出版、2004、pp.197-204。高槻成紀「奈良公園の植生とシカの影響」『昭和 54 … Continue readingが指摘する通り、奈良公園には芝生が自生するための条件が十分に整っているのである。
まず水に関しては、雨水で充分な量を確保できるので問題ない。種についても、奈良公園の近隣には若草山や雲居阪といった芝生の名勝地が存在しており、立地的にわざわざ人が播種・植付をする必要がない。あるいは、園内に生息するシカによって喫食された種子が糞とともに排出されるため、これによっても公園全体に渡る広汎な散布を実現している[2]北川尚史「奈良公園の生態系~特にイネ科植物とシカの関係について~」『昭和63年度教育研究報告書「環境のための教材開発」』1989、pp.3-14。。また、このシカの糞は種子の拡散のみならず、園内に50種以上を数える糞虫による分解を経て、土地の栄養と衛生に寄与している[3]曽根晃一「奈良公園におけるシカの糞の分解消失に及ぼす糞虫の影響」『昭和51年度春日大社境内原生林調査報告』1977、pp.81-90。。加えて、シバをはじめとするイネ科草本は喫食や踏みつけに対して高度に適応しており、他の植物がシカの踏圧や摂食圧耐えられない環境に自生することができる。園内の芝生がそうであるように、シバはこの特性によって、日光を他の植物から独占することにも成功しているのだ[4]渡辺弘之「奈良公園の植生 景観に及ぼすシカの影響」『昭和50年度春日大社境内原生林調査報告』1976、pp.35-42。。こうした生態系のサイクルに対し北川[5]前掲『奈良公園の植物』。は「イネ科草本と装飾性哺乳類(偶蹄目)は互いに利益を与え合う関係を結んで進化してきた。両者の関係は長い歴史を通じて驚くほど洗礼されているのであり、シバを育てるためには人為によるよりもシバにさまざまな利益を与えるシカと共存させる方がはるかに合理的であり効果的なのである。」と解説するが、まさに芝生と鹿の奇跡のような連携によって、奈良公園の芝生景観は生まれているのである。
そんな表から裏から奈良公園の芝生景観を支える鹿たちであるが、実は明治維新の混乱期にはその数を著しく減らしていた。当時の奈良県令である四条隆平にとって奈良公園の鹿は、保護すべき「神鹿」ではなく、農作物を食い荒らす「害獣」であり、徹底的に排除すべき「前近代の象徴」であったらしく、常軌を逸した鹿の駆除を進めたのである。その様子は、『奈良叢記[6]仲川明、森川辰蔵 共編『奈良叢記』駸々堂、1942。』に詳しい。
奈良県令となった四条隆平従四位は春日神鹿は農作物を荒らし、無用有害の獣なりと言って、菜や大根を喰った鹿は、直に銃殺することを許可し、更に鹿園を設け鹿を収容しようとし、鹿園造営の資財産を得る為、天保十年以来旧幕府より、奈良町民に貸し下げた。
仲川明、森川辰蔵 共編『奈良叢記』駸々堂、1942、p300
春日神社 千鳥祐順外三名の談
奈良九十九ヶ町と八ヶ村の人足二百余人を以て、追い込んだのであるが、其の鹿野数は七百数十頭であった。其の時柵内に入るを厭ふ鹿は、番人の前で銃殺せられた。野に棲んでいた鹿を、俄に柵内に収容し、その上飼料も十分に与えなかった為、身体に異常を来し、幣死するもの日々数多あった。明治六年十一月に至って、生存する鹿僅かに三十八頭となった。
仲川明、森川辰蔵共編『奈良叢記』駸々堂、1942、p304
奈良坂鈴木信吉氏談
四条県令は官舎より県庁に出勤するに、馬車に乗る常例であったが、ある日鈴木又市、奈良坂の住人を指揮人とし、奈良附近の猟師を勢子とし、三つ又の大鹿を捕獲して、馬車馬の代わりに挽かしめた。
仲川明、森川辰蔵共編『奈良叢記』駸々堂、1942、『奈良叢記』p306
かつては少なくとも700頭以上いた鹿が、四条隆平が退職する明治6(1874)年にはわずか38頭を数えるまでに追い込まれたという。この頭数では、広大な奈良公園の芝生を下支えするだけの喫食・排泄は見込めないだろう。明治の奈良公園に、ほとんど芝生空間がなかったのも必然である。
こうして一時は絶滅の危機に瀕した奈良公園の神鹿も、明治23(1890)年に発足した春日神鹿保護会の尽力が功を奏し、その数を徐々に回復する。戦前期における園内の鹿の頭数に関する統計は少ない[7] … Continue readingが、明治40年代には600-700頭[8]前掲『奈良叢記』p472。、大正15年時点で669頭[9]前掲 奈良公園史編集委員会編『奈良公園史 本編』p332。、昭和5年には約700頭[10]大和タイムス社『大和百年の歩み 文化編』大和タイムス社、1971、p604。、昭和12年には780頭[11]前掲『奈良叢記』pp.305-306。、昭和17(1942)年には806頭[12]中本宏明『奈良の近代史年表』1981、p112。にまで増加していたという記録が残っている。こうした鹿の増加の時期が、大正期戦前にかけてという芝生景観描写の増加時期と概ね重なるのは、偶然ではないだろう。
舞台が整い、役者も出揃った戦前の奈良公園に、目の肥えた見物客が訪れた。昭和初期、史跡名勝天然記念物保存法に関連して、多くの歴史学者や植物学者が奈良を訪れ、その多様性を訴えた。和辻哲郎や志賀直哉の影響で、奈良に帰住した文化人も増加する。観光客のさらなる増加や日中戦争によるナショナリズムの高揚の影響は、改めて説明するまでもないだろう。様々な要素が、戦前の公園に運命的に出揃ったことで、「広がる芝生が特徴的な奈良公園」という新しい物語は、ようやくその幕を開けることができたのである。
本研究の位置づけ
最後に、本研究のベースとなった既往研究についての解説と、本研究の背景を紹介して、記事の締めくくりとしたい。
奈良公園に関する既往研究の整理
奈良公園に関する歴史的な研究としては、主要なものとして奈良公園百周年を記念して出版された『奈良公園史 歴史編[13]奈良公園史編集委員会編、『奈良公園史 本編』(以下『公園史』)、奈良県、1982。』がまず挙げられる。これは奈良公園開設100周年を記念に奈良県が企画し作成されたものであり、公園の成立以前から現代にいたるまでの詳細かつ網羅的な調査が行われている。しかし公園全域を対象とした通史的性格を持つゆえに、公園の視覚的・空間的変化に焦点を絞った論考に乏しく、植生景観の変化やそれが公園のイメージに与える影響に注目した、具体的な内容は明らかにされていないものであった。
その他の個別研究としては、明治22年に奈良公園の一角に建設された和風建築「奈良倶楽部」の成立過程と設計者を考察する川島[14]川島智生、「明治前期「奈良倶楽部」の成立と建築位相―フェノロサ設計の可能性をさぐって」『神戸女学院大学論集』2013、60(2)、pp.47-64。の研究や、昭和7年に敷地内に設置された「万葉植物園」の創出過程を春日大社所蔵史料から追跡する黒岩の論考[15]黒岩康博、「奈良万葉植物園の創設過程」、ランドスケープ研究、71(5)、pp880-884、2008 03。、あるいは明治の造園家小沢圭次郎がみせた「公園論」と国民統合政策の関係を紐解くために明治27年度に小沢が設計した奈良帝国博物館敷地を取り上げた野嶋の論[16]野嶋正和「近代公園の成立過程における国民統合政策の影響」、ランドスケープ研究、58(5)、pp25-28、 1995。など、公園敷地内の諸施設を分析する研究が複数挙げられる。しかしいずれも、それぞれ公園敷地内に位置する施設・空間について個別に分析したものであり、やはり公園全体の空間について言及したものとは言い難い。以上のように奈良公園の植栽景観を歴史的に読み解いた著述はなく、現在の奈良公園の芝生景観が形成される過程や、共有されていた公園の景観イメージの変遷を分析した論説は、管見の限り見受けられなかった。
本研究の位置づけ
以上の点から、
- 現在見られる芝生に覆われた奈良公園景観の形成過程を、公園開発主体の思想や目的にも注目しつつ、分析していく
- 「奈良公園の芝生景観」という景観のイメージが、いつどのように定着したのかを検証する
という2点を目標に、筆者の京都工芸繊維大学大学院建築学専攻における修士研究として、本研究は行われた。一連の調査にあたっては、奈良県立図書情報館まほろばライブラリー所蔵の絵図・地図・公文書を中心史料とし、一部国立国会図書館デジタルライブラリーや青空文庫所蔵の観光ガイド・随筆・小説なども利用した。詳しい史料の解説は、各章の冒頭及び注釈欄に詳述した。
なお、一つの植栽景観が年月をかけ形成され、「その土地らしさ」として人々の間に定着する過程を明らかにすることは、地域ブランディングや地方創生といった今日的課題にも示唆を与えうるものであり、本論はこうした景観政策や地域振興策も視野に入れた研究であることを付言しておく。
References
↑1 | 『奈良市史 自然編』pp.194-197。北川尚史『奈良公園の植物』トンボ出版、2004、pp.197-204。高槻成紀「奈良公園の植生とシカの影響」『昭和 54 年度天然記念物「奈良のシカ」調査報告』1980、pp.113-132。など。 |
---|---|
↑2 | 北川尚史「奈良公園の生態系~特にイネ科植物とシカの関係について~」『昭和63年度教育研究報告書「環境のための教材開発」』1989、pp.3-14。 |
↑3 | 曽根晃一「奈良公園におけるシカの糞の分解消失に及ぼす糞虫の影響」『昭和51年度春日大社境内原生林調査報告』1977、pp.81-90。 |
↑4 | 渡辺弘之「奈良公園の植生 景観に及ぼすシカの影響」『昭和50年度春日大社境内原生林調査報告』1976、pp.35-42。 |
↑5 | 前掲『奈良公園の植物』。 |
↑6 | 仲川明、森川辰蔵 共編『奈良叢記』駸々堂、1942。 |
↑7 | 以下の鹿の頭数に関する記述は、藤田和『奈良の鹿年譜:人と鹿の一千年』ディア・マイ・フレンズ(奈良の鹿市民調査会)、1997、pp.69-100、の内容を参考とした。ただし記載されたデータの出典はいずれも二次情報がほとんどであり、その数値の集計主体は不明であるものが多い点に留意が必要である。 |
↑8 | 前掲『奈良叢記』p472。 |
↑9 | 前掲 奈良公園史編集委員会編『奈良公園史 本編』p332。 |
↑10 | 大和タイムス社『大和百年の歩み 文化編』大和タイムス社、1971、p604。 |
↑11 | 前掲『奈良叢記』pp.305-306。 |
↑12 | 中本宏明『奈良の近代史年表』1981、p112。 |
↑13 | 奈良公園史編集委員会編、『奈良公園史 本編』(以下『公園史』)、奈良県、1982。 |
↑14 | 川島智生、「明治前期「奈良倶楽部」の成立と建築位相―フェノロサ設計の可能性をさぐって」『神戸女学院大学論集』2013、60(2)、pp.47-64。 |
↑15 | 黒岩康博、「奈良万葉植物園の創設過程」、ランドスケープ研究、71(5)、pp880-884、2008 03。 |
↑16 | 野嶋正和「近代公園の成立過程における国民統合政策の影響」、ランドスケープ研究、58(5)、pp25-28、 1995。 |