奈良県による本格的な芝生化開発が進行するのは、奈良町が戦後の混乱から息を吹き返し、公園にもかつての体温が戻り始めた昭和36(1961)年のことである。当時の県知事奥田良三は、第二室戸台風の被害からの復興とさらなる観光産業の活性化を図るべく、奈良国際文化観光都市建設計画公園事業にもとづく「奈良公園整備計画案[1]奈良県『昭和三十三年五月起 奈良公園整備計画一件』、1961。」を提出する。戦後最大の公園整備事業となったこの計画は、戦前のそれらに比べて極めて芝生空間の開発に積極的なものであった。
奈良公園整備計画
計画概要
一)平坦部A動線計画現在車の入れる道路について無条件で車が出入りしておるが、車の利用できる進路を限定し、拡幅舗装を行ない、歩道を分離する。
B園地計画中央に広々とした芝生の広場を取り、樹木を点在させ、年齢・性別をとわず広く大衆に利用できる憩のところを作る。市街隣接地は公園地の緩衡地帯として、樹木密植し市街地の目隠と防災とを兼ねた植栽を行なう。園内全般について照明を行ない、夜の利用の便をはかり、便所、水呑場等の施設は最少限度にこれをおさえる。
二)山林部(開発)(中略)
(一)興福寺附近整備事業(三六〇五万三〇〇〇円)
興福寺の伽藍を取り囲む地区で猿沢池、旧奈良学芸大学跡の一部及び その附近である。この地区の整備は、興福寺の伽藍と市街地の緩衡地帯として植栽ならびに一部芝生の広場で構成する。ィ猿沢池の附近
猿沢池及び尾花川の護岸改修及び池の浚渫の為の水抜を新設し、市街地と接する所には目隠の植栽を行なう。なお、利用者の便を図る為、水呑場新設する。口その他の地域
芝生の広場とその周辺に植栽を行ない便所及び水呑場を新設する。(二)浅茅ヶ原附近整備事業(一億四八三五万五〇〇〇円)
この区域は公園の南に位し水景に乏しい奈良公園にあつて荒池・蓬萊池と二つの池を取りかこむゆるやかな傾斜のある変化に富んだ場所である。
この地区の整備は南の市街隣接地の瑜伽山には植栽をなし、一部に芝生の広場を取り春日参道添にも植栽する。園内に照明を行なう。ィ浅茅ヶ原
春日参道沿いには、樹木密植し、神域としての威厳を保ち、中央ひょうたん池附近に芝生の広場を取り、南側斜面は主として赤松を植える。園内池及び水路の整備及び水呑場、便所を設置し照明を行なう。口荒池を取り囲む区域
荒池東側園地を中心として広々とした芝生の広場を取り、その南は自然に池に落ち込ませ道路沿いに植栽を行ない、水呑場、便所を設置し、照明を行なう。瑜伽山の買収を行ない、下には芝生の広場を取り、市街隣接地は樹木密植し、頂上に広場を設け、展望をはかる。ハ蓬萊池附近
池の護岸及び橋及び堂の改修南の市街隣接地に植栽を行なう○整備完了。
四季亭より池の西南を廻る道路舗装を行なう。(三)春日野附近整備事業(一億六五〇八万一〇〇〇円)
公園の中央に位し、東に若草山・春日山を望むゆるやかな傾斜地である。この地区の整備は、若草山・春日山をながめられる広々とした芝生の広場を作り、所々に植栽を行ない、園内照明を行なう。ィ春日野附近
グラウンド、テニスコート、プール、公舎、そのほか建物等を撤去し、一部民地買収の上、附近のゆるやかな地型にあわせ盛上、整形を行ない、芝生の広場を作り周囲に植栽を行なう。
吉城川及び附近の水路池の護岸及び整形を行ない、園内に水呑場、 便所を設置し、照明を行なう。
三山亭十字路より水谷橋間の道路拡幅(一二㍍)、舗装、歩道新設(六㍍)する。ロ若草山麓一
若草山麓民地裏整形の上芝生の小広場を作成、隣接地に植栽を行な い便所を設置し照明を行なう。 水谷橋より手向山八幡宮間の道路拡幅(九㍍)、舗装を行なう。(以下省略)
奈良県『昭和三十三年五月起 奈良公園整備計画一件』、1961(太字強調は筆者による)
戦前の開発計画では随所に見られた「緑樹薪鬱」「幽靈閑雅」の字句は消え、社寺保存や森林風致に関する言及があからさまに減少している。代わって、興福寺境内、浅茅ヶ原、春日野といった今日芝生が広がるエリアへの芝生整備が目論まれている。去る昭和22(1947)年の者自治払い下げを通じて、東大寺・興福寺・手向山神社・瑜伽神社などを始めとする過半数の公園地が解除されていることを考えれば、飛火野を除くほぼ全平坦部を相手取る、一大計画といっていいだろう。同計画書に図面の添付はないが、その後昭和42年に作成された「奈良国際文化観光都市建設計画公園事業の年度割りの変更について[2]奈良県立図書情報館所蔵『奈良国際文化観光都市建設計画公園事業の年度割りの変更について』1967」の付図から、その規模の大きさと範囲の広さが窺える。
もともと昭和38年から42年までの5カ年で実施するはずであった本計画だが、財政上の理由から進捗ははかどらなかったらしい。奈良公園史[3]前掲奈良公園史編集委員会編『奈良公園史 本編』奈良県、1982、pp469-470。によれば、昭和55年時点ではほとんどの平坦部にまつわる計画が完了しているが、瑜伽山の整備(二-ロ)と春日野グラウンドの解体(三-イ)は特に遅れたようである。前者の委細は詳かではないが、春日野グラウンドおよび周辺設備は、昭和63(1988)年開催の「なら・シルクロード博覧会」を期にようやく撤去されることとなった。博覧会終了後には「奈良公園の特性を生かした形で多目的に使用し得るオープンスペースを軸とした園地[4]財団法人なら・シルクロード博協会『なら・シルクロード博 公式記録』1988、p.198。」として、春日野園地、飛火野園地、登大路園地がそれぞれ再整備される。
以上を持って、今日の奈良公園景観はほぼ完成するに至ったといえるだろう。
References
↑1 | 奈良県『昭和三十三年五月起 奈良公園整備計画一件』、1961。 |
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↑2 | 奈良県立図書情報館所蔵『奈良国際文化観光都市建設計画公園事業の年度割りの変更について』1967 |
↑3 | 前掲奈良公園史編集委員会編『奈良公園史 本編』奈良県、1982、pp469-470。 |
↑4 | 財団法人なら・シルクロード博協会『なら・シルクロード博 公式記録』1988、p.198。 |