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【明治】奈良公園の理想と現実
かつて田畑だった奈良公園
まず前提として、奈良公園が開設したばかりの明治20年前後においては、奈良公園敷地にはほとんど芝生空間が存在していなかった。これは、当時の奈良公園の土地台帳や実測図を分析すれば明らかである。
例えば下記の地図は、明治23(1890)年に作成された地積更正図の地目をトレスしたものと、現代(2008年)の航空写真である。一見して明らかなように、芝生が広がるのは興福寺境内と東大寺の伽藍内、あとは若草山のみである。
また、戦前期の奈良公園土地台帳でも、同様の結論がえられる。同史料を集計した結果、公園地に占める割合が多いのは社寺地(38.4%)と田畑(17.22%)であり、芝生空間はわずかに全体の13.11%を占めるに過ぎなかった。無論全く存在しないわけではないが、現代の風景と比較すれば明らかに芝生の占める面積が少ないことがわかるだろう。
かわりに注目したいのが、奈良公園敷地に含まれる「田畑」「宅地・民家」という土地の多さである。特に「③春日野エリア」「⑤博物館エリア」「⑧浅茅ヶ原エリア」といった現代では芝生が広がる空間が、明治期においては少なからぬ部分を田畑によって構成されている点は注目に値する。
上記の写真をみれば明らかな通り、現代の春日野や浅茅ヶ原周辺(荒池・鷺池含む)には、敷地内に田畑や民家は当然含まれていない。明治期の史料に散見される「田」「畑」「宅地」という記述は、現代の奈良公園と比較した際の最も大きな相違点であろう。現代では芝生が広がるこうした風景は、かつては田畑や民家が入り交じる、非常に俗っぽい雑多な空間であったと考えられる。
明治の奈良公園が目指した「神の森」
こうした空間を排除し、興福寺や東大寺・春日大社といった名所旧跡の舞台としてふさわしい公園地を作ることが、当時の奈良公園開発におけるテーゼであった。当時の上申書・計画案などを紐解いてみると、明治期の奈良公園における景観開発とは、
- ①名勝旧跡の保護と補修
- ②鬱蒼とした森林空間の創出
- ③無秩序な民有地の整備
の3点に集約される。明治期における「奈良公園らしい景観」とは、明るく開放的な芝生空間などではなく、この3要素を満たした「歴史ある社寺と美しい樹林で構成された伝統的・神秘的な景観」を指すものであったのだ。
特に注目したいのが、当時の奈良県が執拗に春日大社の「森林」にフォーカスした点である。例えば藤田祥光の『奈良公園[1]藤田祥光『奈良公園』奈良県立図書情報館所蔵、執筆年不明。』には、明治17年に奈良公園を訪れた文部省嘱託米国人フェノロサが、奈良公園の美しさに胸打たれ一言も発言できなかったという下記の逸話が描かれている(太字強調は筆者による)。
千数百年以前ノ美術局地ノ宝器アリ、名山近辺ニ囲遶シ、天ヲ摩スル老杉ノ樹林、神鹿徐ニ歩ミ、静寂ナル公園世界広シト雖モ無シ、故ニ只々驚嘆スルノミナレバ、発スル言葉モ出ザリシナリ。
藤田祥光『奈良公園』奈良県立図書情報館所蔵、執筆年不明
このエピソードの真偽の程は定かではない。しかしこの逸話は、奈良公園の特色を語る文脈でたびたび参照されているものであり、当時の奈良県にとってこのフェノロサが語った(とされる)風景が、奈良公園のアイデンティティの大きな拠り所となった。結果、当時の奈良県行政は公園を開発するに当たり、口を開けば「巨樹喬木」だの「鬱蒼タル」だの「幽玄閑雅」だのと、およそ芝生景観とは縁遠い黒々とした森林風景を、理想的な奈良公園の風景として扱っていたのである。
描かれた明治の奈良公園
一方遊覧客への案内を目的とした絵図や地図の上でも、描写の省略・強調・歪曲といった技法によって「理想の奈良公園」整備は行われてい た。当時の絵図や地図をみれば、地形は名勝地を誇張する形で歪められ、宅地は木々が上書きされることで森林に化け、田畑も雲型によ る装飾で覆い隠されるなど、実に様々な工夫によって公園内の望ましくない風景が圧縮・省略されて描かれてきた。あたかも公園全体が杉や松のような樹木で蔽われていたかのように描くその恣意性からも、「森林に蔽われた」奈良公園イメージが共有されていた事実が裏付けられる。
そして議論の主題である芝生に目を向けると、今日では奈良公園のシンボルとして親しまれている芝生が、驚くほど描かれていない事実を発見できた。
繰り言になるが、土地台帳や実測図を見れば当時の奈良公園にも芝生の広がる空間は確かに存在していた。加えて近世の史料にまで遡れば、春日野や飛火野の風景を描いた絵図において、草原で戯れる庶民や子供たちの牧歌的な風景がしばし描かれている。例えば『大和名所図会』では、 芝生という表現こそ登場しないものの、低層の草で蔽われた広々とした空間として、現在の奈良公園敷地を 描いている。
だが近世の絵図において若葉や春芽といった明るく開放的な植物は、興福寺や東大寺といった社寺とは 結びつかず、むしろ非宗教的な土地である春日野や飛火野との関連が強い。加えてこうした植物 は、山菜を摘む女性や蛍と戯れる子供など、むしろ世俗的な風景と併せて描く傾向が見られた。どの属性も、近代奈良公園が理想とする風景には不要な景観要素と言えるだろう。
これはもはや、明治の奈良県民が芝生空間を意図的に無視していたと解釈するのが妥当であろう。芝生の空間というのは田畑や民家ですらない未整備の土地として、庶民的で、俗悪で、奈良公園にふさわしくない風景としてみなされていたのかもしれない。
当時の奈良公園景観に対する価値付けにおいて芝生景観とは、若草山・春日野・浅茅ヶ原といった各名勝地に付随する断片的なイメージでしかなく、公園全体を象徴する植生としては認識されていなかった。「聖域としての奈良公園像」を補強する景観要素としてはもっぱら、杉や松による森林がその役割を担っていたのである。芝生への視線が史料上に再びその姿を表すのは、次章にて紹介する通り大正期から昭和初期にかけてのことであった。