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“藤田祥光『奈良公園』奈良県立図書情報館所蔵、執筆年不明  このエピソードの真偽の程は定かではない。しかしこの逸話は、その後奈良公園の特色を語る文脈でたびたび参照される事となった。当時の奈良県にとって…”

  1990年代以降、『洛中洛外図』や『一遍上人絵伝』といった風景を描いた絵図史料を元に、かつての都市や文化の復元を試みる動きが、建築史・絵画史の世界で盛んになった((千野香織、西和夫『フィクションとしての絵画―美術史の眼 建築史の眼』ぺりかん社、1991年、など。))。なかでも古代や中世の街並みというものは、文字資料や発掘調査のみでは限界がある分野であり、巻物や屏風に映し出された風景は重要な史料である。

 一般に絵図・地図に描かれた風景は、製作者や利害関係者による歪みや願望の影響をうけるため、当時の風景を客観的に分析するには注意を要する史料である。しかしそれは逆に、そうした表現上の省略や強調を手がかりとして、当時の人々が抱いていた理想像や共有されていた景観イメージを分析できるということも意味している。

 本ブログで主題とする奈良公園も、近世から近代に至るまで、幾人もの画家の手によって描かれてきた。それらは主に観光客向けに作成された旅行ガイドや名所案内のたぐいであったが、当然そこには当時の奈良町民や観光客の願望や思惑が反映されている。

 中でもこの記事では、特に園内における植物の描き方に注目したい。なぜなら、江戸時代後期から明治時代にかけての絵図や地図、随筆文といった史料において描かれる樹木や芝生を読み解いた結果、当時の人々が奈良公園に対してどのような空間としての役割を期待していたのかが浮き彫りになってきたからである。

明治における奈良公園の景観イメージ

 はじめに、明治時代において奈良公園を描いた地図・絵図・案内図を史料として活用する。利用するのは、奈良県立図書情報館に所蔵された絵図地図のうち、各時代の奈良公園(付近)を描いている下記の4つを選定した。

  • 奈良名所独案内(1879)
  • 奈良名所古蹟一覧之図(1886)
  • 奈良明細全図(1890)
  • 奈良名勝全図(1898)

 ちなみに本ブログでは、上記4史料とほとんど同時代における土地台帳や奈良県行成文書の考察も行っている。そこで語られている、当時の奈良公園が抱えていた課題や公園開発の目的意識は、下記の絵図の読み解きにおいても重要なものとなってくるため、ぜひ予め目を通していただきたい。

奈良名所独案内(1879)

奈良名所独案内(1879)

 はじめに紹介するのは、奈良公園創立とほぼ同時期、明治12(1879)年に作成された『奈良名所独案内』((奈良県立図書情報館 ふるさと貴重書庫 所蔵『奈良名所独案内』橋井善次郎、1879。))である。この銅版彩色の案内図は、奈良興立舎の設立に携わった県会議員の橋井善次郎が企画し、『日新記聞』の発行者でもある金澤昇平の編集によって刷られたものである。近代奈良の未来像を託された2人が手掛けた絵図であり、象徴的な一枚と言えるだろう。

 東は春日社や大仏殿、西は西大寺・唐招提寺・薬師寺をいれ、名所旧跡めぐりに必要な道だけを赤色で強調、跋文で「諸君此図によりて道をもとめ給ハヽ必すまよふことなかるへし、号て独案内といふ」と記されていることからも、名所旧跡を巡る遊覧客のためのものであることが窺える。

 実測図の地目と比較してみると、公園敷地に該当する空間のほとんどが針葉樹らしき木々で覆われており、春日大社や春日山と一体となった森林空間として描写されている。例えば「③春日野エリア」では、奈良倶楽部建設予定敷地にわずかに、「⑤博物館エリア」についても、登大路沿いに、それぞれ民家と思しき家屋が描かれているほかは、春日大社の境内林の一部として描かれている。「⑧浅茅ヶ原エリア」についても大部分が森として描かれる他、瑜伽山と思われる山が描写されている。また「アライケ」という表記はあるが、図として水辺は描かれていない。本図の製作者である橋井は、明治26年の公園改良諮詢案(前節3-2-6参照)の解説において、公園の特徴として「千有余年生ヒ繁リタル巨樹喬木ノアル有リ」と表現したことを前項にて取り上げたが、本図はその理想像が公園開設当初から描かれていたものと言えるだろう。

奈良名所古蹟一覧之図(1886)

奈良名所古蹟一覧之図(1886)

 『奈良名所古蹟一覧之図』((奈良県立図書情報館 ふるさと貴重書庫所蔵『奈良名所古蹟一覧之図』、安寧趣味の会、1874-1886。))は明治中期に作成された木版の奈良名所案内図である。紙面左下部、興福寺東金堂の東北に見える洋風建築は明治7年にできた寧楽書院ことから、7年以降作成であると見られる。また、右隅欄外の説明にある春日祭(申祭)は、明治19(1886)年に旧儀復興して勅祭になったものであるので、この記述は同19年以前のものであるとされる。この図版作成時点では、画面手前の興福寺境内から猿沢池にかけての一部分のみが、奈良公園の正式な敷地であった。

 画面左上から右上に二月堂・若草山・春日本社・春日若宮を望み、左下には南円堂・猿沢池を配置。春日大社参道を短縮・直進させる他、「②氷室神社エリア」「⑤博物館エリア」「⑧浅茅ヶ原エリア」を大きく圧縮して描くことで、公園全体を紙面内に納めつつ名勝地を大きく描き出すよう工夫して描かれている。土地台帳上では「田畑」「宅地」の広がる「①県庁エリア」「③春日野エリア」「⑧浅茅ヶ原エリア」についても、霞や雲のような白抜きで描写を省略し、「殿原範永」「伊勢大輔」「俊成」の和歌や「はせお(芭蕉)」の俳句を載せている。

 また、明治20年の興福寺南大門跡周囲に関する改良計画書において描写された、「風光大ニ損シ或ハ襤褸らんる澣濯かんたくセルモノヲ曝ラシ、或ハ建物ノ周囲ニ種々見苦敷物品ヲ露積セルカ如キアリ」「厠圊かわやノ構造其宜シキヲ得サルヲ以テ、屎尿しにょうノ漏洩シテ地上ヲ汚穢おあいナラシメ、悪臭ノ鼻ヲツアリ」「建物等ノ構造粗悪ニシテ園地ノ風致ヲ害スルト見認ムルモノ」などの粗悪な構造物・建物も、本図では省略されて描かれていない。

奈良明細全図(1890)

奈良明細全図(1890)

『奈良明細全図((奈良県立図書情報館 ふるさと貴重書庫所蔵『奈良明細全図』阪田稔、1890。))』は、奈良公園の拡張直後にあたる明治23(1890)年に、金沢昇平の製図を後藤七郎右衛門が印刷し、阪田購文堂が発行した奈良総図である。平面鳥瞰両式併用で、東を上にする奈良絵図の伝統を踏襲した銅版図で、地図の周囲には18ヶ所の県内各名所の挿絵と解説が並ぶ。また、余白には平城京の位置を示す「平城旧都之図」を右下に入れる他、「各地名所里程」「奈良近地名所里程」「奈良町諸官衙所在里程」を表にまとめ、「大和物産表」を載せるなど、より訪問客の利便性を考慮した地図となっている。奈良の有名旅館10軒を列記するのも興味深い。

 『奈良名所独案内』と同じ金澤の手による地図のため構図や描写は酷似しており、春日大社から市街地まで一体となった針葉樹林が公園を覆う。しかし「③春日野エリア」「⑧浅茅ヶ原エリア」の樹林の密度が薄く、かわりに「田畑」を意味する斜線記号が記されているなど、土地台帳との矛盾が比較的小さい絵図と言えるだろう。建設予定の帝国博物館や奈良離宮が記されている他、市街地の描写も克明になっているなど、全体的に絵図よりも地図としての役割が強調されている。

奈良名勝全図(1898)

奈良名勝全図(1898)

  明治31年に発行された『奈良名勝全図』((奈良県立図書情報館 ふるさと貴重書庫所蔵『奈良名勝全図』筒井梅吉1898。))は、案内記出版の老舗を継ぎ、同26年から昭和4年まで36点以上の出版を手掛けている筒井梅吉による奈良の案内図である。道に黄土色、雲形・桜・寺社の建物の柱に赤色、建物の側壁に茶色、屋根・池に水色、山・樹木・芝生に緑色を用い、名所などは四角の黒枠で囲み赤地に墨色で記入されているなど、華やかな色彩で奈良公園が描かれている。構図としては前述の『奈良名所古蹟一覧之図』に近いが、「①県庁前エリア」から「②氷室神社エリア」にかけて、あるいは「⑤博物館エリア」から「⑧浅茅ヶ原エリア」にかけてを歪曲せずに描いており、その分春日大社の参道が極端に圧縮されている。杉と黒松と思しき木々に埋もれるように名勝が並ぶ風景は、同時期に提案された「奈良公園改良委員ノ儀ニ付建議」の設置に関する「其風光明媚ナル樹木ノ欝蓊(うつおう)タル」という表現を彷彿とさせる。しかし、土地台帳では「芝地」であった雲居坂や浅茅ヶ原はやはり描写されず、奈良倶楽部・荒池の周囲にあるべき田畑や宅地も、樹木と雲型によって巧みに省略されている。芝生に限らず、田畑・宅地も省略されており、その意味において土地台帳や実測図上の奈良公園との乖離は大きい。

小括

 以上、行政文書から案内絵図を通じて、奈良公園創設初期における公園像を追いかけてきた。そこに描かれていたのは、伊勢神宮の森のように鬱蒼と木々が生い茂る、聖域としての奈良公園であった。実はこの「奈良公園=森林」というイメージは、当時の奈良県民にとっての共通のイメージであったようであり、絵図や地図以外の史料からもその傾向を見つけることができる

 例えば藤田祥光の『奈良公園((藤田祥光『奈良公園』奈良県立図書情報館所蔵、執筆年不明。))』には、明治17年に奈良公園を訪れた文部省嘱託米国人フェノロサが、奈良公園の美しさに胸打たれ一言も発言できなかったという下記の逸話が描かれている。

千数百年以前ノ美術局地ノ宝器アリ、名山近辺ニ囲遶いにょうシ、天ヲ摩スル老杉ノ樹林、神鹿おもむろニ歩ミ、静寂ナル公園世界広シトいへどもモ無シ、故ニ只々驚嘆スルノミナレバ、発スル言葉モ出ザリシナリ。

奈良公園((藤田祥光『奈良公園』奈良県立図書情報館所蔵、執筆年不明

 このエピソードの真偽の程は定かではない。しかしこの逸話は、その後奈良公園の特色を語る文脈でたびたび参照される事となった。当時の奈良県にとってこのフェノロサが語った(とされる)風景が人々の心を掴み、奈良公園のアイデンティティの大きな拠り所となったようである。

 また下記の記事でも検証した通り、奈良公園を管理する行政においても、春日山境内林と一体となった森林こそが奈良公園を象徴する風景だった。逆に、今日の我々に馴染みのある芝生空間は明治の奈良県にとって注目に値する植生ではなく、むしろ排除の対象でさえあったようだ。芝生が奈良公園を象徴する魅力的な風景として人々に注目されるのは、大正期から昭和初期を待たねばならない。

近世における奈良公園の景観イメージ

 ではなぜ芝生空間が排除の対象であったのだろうか。それを読み解く手がかりが、近世に作成された『大和名所絵図((大日本名所図会刊行会 編『大和名所圖會』大日本名所図会刊行会、1919))』にある。

 『大和名所図会((秋里舜福 著 ・竹原信繁 画『大和名所図会』。ただし読み解きにあたっては、以下の本も利用した。大日本名所図会刊行会 編『大日本名所図会』大日本名所図会刊行会、1919。本渡章『図典 「大和名所図会」を読む ―奈良名所むかし案内』創元社、2020。森田恭二『『大和名所図会』のおもしろさ』和泉書院、2015。))』は寛政3(1791)年に、秋里籬島と竹原信繁によって作成された、全六巻七冊の案内書である。奈良各所の名所旧跡が楽しめる183の絵に加え、詩歌や古典の引用と解説をふんだんに盛り込んだ労作であり、近世の奈良を分析する史料として非常に貴重なものと言える。

『大和名所図会』における、東大寺
『大和名所図会』における、春日大社

 『大和名所絵図』の表現や風景の描き方は、明治時代以降にも引き継がれた。

 例えば上記の2図はそれぞれ、『大和名所図会』における東大寺境内と春日大社境内を描いた絵図である。南西の市街地から北東の若草山を見下ろす俯瞰の構図、鬱蒼と生い茂る樹林に聳える社寺施設、そしてたなびく霞によって省略する描き方など、前節にて取り上げた『奈良名所古蹟一覧之図』や『奈良名勝全図』と描写が酷似しているが、これは『大和名所図会』の影響と見ていいだろう。このように、『大和名所図会』は、後世の都市空間イメージにも強い影響を及ぼした一冊であった。言い換えれば、樹々にあふれる鬱蒼とした奈良公園という風景のイメージは、近世から近代に至るまで不変であったとも言えるだろう。

 一方同書には、部分的にではあるが(現在奈良公園と呼ばれている土地において)芝生や原野に類する風景の描写が確認できる。明治時代以降、奈良公園の芝地や草原風景に注目した絵図や地図が姿を消したことを考えると、これは大きな変化と言える。

 そこで本節では、大和名所図会に描かれた芝生景観や、そこに引用された古典・詩歌が持つ情景を分析し、江戸~明治にかけての人々が抱いていた芝生景観に対するイメージを考察した。江戸と明治、2つの時代において奈良公園の芝生がどのような存在として描かれているかを対比的に見ていこう。

春日野

 春日野という地名は、 現在では東大寺参道と若草山山麓に挟まれた一帯を指す地名であるが、時代によって指す範囲が大きく異なる表現である。『大和名所図会』においても、「春日野は大鳥居よりひがし、春日社までをいふ((前掲大日本名所図会刊行会 編『大和名所図会』、p12。))」とあるように、後述する飛火野や雪消の澤を含む広範囲を指す地名であった。くわえて、飛火野も雪消の澤も、それぞれの意味する範囲が隣接・重複している。各土地の描写が、具体的に今の奈良公園のどの部分を指す風景であるかという限定が困難な点には、留意が必要である。

「春日野の早蕨」(『大和名所絵図』より)



 さて、春日野の風景を描いた『大和名所図会』の絵図としては、小高い丘の上で早蕨を集める女性たちが描かれた「春日野の早蕨((前掲 大日本名所図会刊行会 編『大和名所図会』、pp130-131。))」が挙げられる。春の陽気が感じられるこの一枚の右上には以下の詩が添えられている。

春日のの草葉は焼くとみえなくに下もえ渡る春の早蕨 大納言公実

大日本名所図会刊行会 編『大和名所図会』、pp130-131

春の行事である野焼きの「燃え渡る」と、春先に芽生える若葉の「萌え渡る」をかけたこの詩からは、藤原公実が生きた平安後期の春日野にも、人々に親しまれた草原があったことを感じさせる。

飛火野

「飛火野の蛍狩り」(『大和名所絵図』より)

 飛火野もまた、名前こそ現代にも残るがその指し示す範囲が時代とともに変化してきた地名である。したがって、『大和名所図会』に描かれた「飛火野の蛍狩り(( 大日本名所図会刊行会 編『大和名所図会』、PP.78-79。))」が、現在の飛火野(奈良離宮建設予定地跡)を描いたものである可能性は低い。春を描いた春日野の早蕨に対し、こちらは夏の庶民の営みを生き生きと描いた一枚であるが、その背景は所々に木々が並ぶ平地である。
 絵図の次の頁には、かつて狼煙を上げる地であったという地名の由来や逸話、そして以下の二首が記されている。

春日野の飛火の野守いでてみよいまいく日ありて若菜摘みてむ 詠み人しらず
古今和歌集

大日本名所図会刊行会 編『大和名所図会』、PP.77

若な摘む袖とぞ見ゆる春日野の飛火ののべの雪の村消 前参議教長
新古今和歌集

大日本名所図会刊行会 編『大和名所図会』、PP.77

雪消澤

 雪消の澤という地名は、現在は用いられていない地名であるが、公園が誕生した明治時代頃までは頻繁に用いられた表現であり、前節で紹介した絵地図にも記載がある。その場所は「雪消澤は御旅所の地のひがしより、南へ分け入る細道なり。」という本文の解説((大日本名所図会刊行会 編『大和名所図会』、p38。))からも、現在の飛火野と呼ばれる場所を指すものであると考えられる。

「雪消の澤」(『大和名所絵図』より)

 この図には、まだ雪が積もる雪消の澤にて一足早く訪れた春の七草を楽しむ女性達が描かれている。その右上には「白雪のまたふる里の春日野にいざうちわらひ若菜摘みみん」と添えられている他 本文の解説欄にも、春の訪れを喜ぶ下記の二首が紹介されている。

春くれば雪消の澤に袖たれてまだうらわかき若菜をぞつむ 崇徳院
風雅

大日本名所図会刊行会 編『大和名所図会』、p38

春日野の雪げの澤に袖ふれて君がためにと小芹をぞつむ 仲實
堀川太郎百首

大日本名所図会刊行会 編『大和名所図会』、p38

 このように、現在の奈良公園敷地である春日野・飛火野・雪消澤といった地域は、古代より文学作品の舞台として親しまれてきた空間であり、かつその描写には多くの場合「若菜」「若草」などの植生が付随する小道具として登場していた。

その他

 では、実測図で芝生として描写されていた「浅茅ヶ原」「雲井坂」「興福寺境内」は、近世ではどのように捉えられていたのであろうか?

 雲井坂((大日本名所図会刊行会 編『大和名所図会』、p110。))については、「とヾろき橋の北にあり。」という位置情報と、奈良八景の「村雨の晴間に越えよ雲井坂三笠の山は程ちかくとも」という一説が引用されているにとどまり、また絵図での描写はない。

 また、浅茅ヶ原については絵図・文章ともにその紹介が存在していない。

「興福寺」(『大和名所絵図』より)

 二章の『実測図』を用いた考察にて、芝生の存在がほのめかされた興福寺境内については、

般若芝 南大門の石壇の下にあり。むかし大般若經六百卷をうづまれしなりとぞ。

大日本名所図会刊行会 編『大和名所図会』、p82

額塚 南大門の西の脇にあり。一名茶臼山といふ。天平寶字八年五月、南大門の芝に大なる穴出來て洪水路頭に溢れ、往來もなりがたく、諸人の歎きとなりしかば……

大日本名所図会刊行会 編『大和名所図会』、p82

という部分的な描写がある((大日本名所図会刊行会 編『大和名所図会』、p82。))他、興福寺全体を描く見開き6ページに渡る鳥瞰図において、その敷地のほとんどが、芝生と思しき点描で描かれている。この空間は前章の『実測図』でも芝生として描かれていた場所であり、これを裏付けるものと言えるだろう。

小括

 こうして『大和名所図会』における草原風景を取り上げていくと、蛍狩や早蕨摘みといった庶民的な営為と紐付いて描かれていることに気がつくであろう。

 実は明治時代になるまで、東大寺や興福寺の周囲は農村同然であった。すでに「土地台帳にみる、明治奈良公園の土地利用」にて指摘したとおり、明治時代の春日野や浅茅ヶ原には田畑や民家があったことが確認されている。また、「行政文書にみる、明治奈良公園の景観イメージ」で読み解いたとおり、当時の興福寺境内には多数の不届者が不当にあばら家を建てて住み着いている有様であり、今日よりもよほど雑多な空間であった。『大和名所図会』は、東大寺や春日大社といった神聖な空間だけでなく、農村に生きる人々の牧歌的な風景も描いたものだったのである。

まとめ

 しかしこうした風景を、明治の奈良県や奈良町民は良しとしていなかった。彼らが奈良公園に望んでいたのは、老樹が亭々とそびえる神聖な森であり、世俗的な要素の排除を進めていた。例えば猿沢池の周囲や春日大社参道には、樹齢100年程度の杉やクロマツが何本もそびえ立っているのだが、これらはいずれもこの時代の奈良県が園内へ数百本という樹々を植樹した名残である。また明治20年から30年にかけての奈良公園は、莫大な予算を注ぎ込んで近隣の田畑や宅地を買い占め、公園地への編入を進めているが、これも東大寺や興福寺と行った名所旧跡にふさわしい風致を整えるためであった。

 以上、近世から近代にかけての奈良公園の描かれ方を比較することで、各時代においての奈良公園への風景イメージの変遷を分析した。両時代の絵図において、森林や古社寺の書き方は大きく共通しているが、反面世俗的な風景や芝生空間への描き方には差異がみられた。それは奈良公園という土地を、より神聖で神秘的な空間へと作り変えたいという、明治奈良県のブランディング戦略の現れだったと言えるだろう。

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