明治から大正・昭和初期にかけての期間は、奈良公園の開発方針が大きく変化した時代であった。その変化が如実に現れた例として、例えば「公園改良委員会規則」の変化が挙げられる。
以下の引用文は、明治27(1894)年に制定された「奈良公園改良諮詢会規則[1]奈良県立図書情報館所蔵『明治二十七年 奈良公園改良ニ係ル書類 一』1894。」と、明治42(1909)年に制定された「奈良公園改良調査会規則[2]奈良県立図書情報館所蔵『明治四十二年四月 奈良公園改良調査関係書類 公園係』1916。」、それぞれの委員の活動目的や事務分掌を定めた部分の比較である。
奈良公園改良諮詢会規則
第二条
(奈良県立図書情報館所蔵『明治二十七年 奈良公園改良ニ係ル書類 一』1894
奈良公園諮詢会ハ左ノ事項ニ対シ、奈良県知事ノ諮詢ヲ受ケ、之ニ答申スルモノトス、
一 奈良公園ノ土功及ビ造園ニ関スル事項
二 奈良公園山林ノ作業ニ関する事項
三 奈良公園ニ関シ奈良県知事ノ臨時諮詢スル事項
奈良公園改良調査会規則
第五条
奈良公園改良調査会ニ調査ノ為メ左ノ三部ヲ置ク、其分掌左ノ如シ、第一部
電気鉄道、道路、橋梁、池沼、運動場、亭榭、牆柵其他土木ニ関スル事項第二部
立木ニ関スル事項
森林経営ニ関スル事項
財源ニ関スル事項第三部
奈良県立図書情報館所蔵『明治四十二年四月 奈良公園改良調査関係書類 公園係』1916
動物園、植物園其他公園内ニ必要ナル設備ニ関スル事項
前者は奈良公園拡張に際し組織された官民協力の有識者団体であり、後者は同組織がその名称と人事を改正しただけのものである。が、2つの規則を比較すると、奈良公園の開発方針がわずか15年で劇的に変化していることが読み取れるだろう。前者は開園間もないこともあり、「土功及ビ造園ニ関スル事項」など非常に漠然とした方針しか建てられていないが、後者に関しては「鉄道」「道路」「橋梁」「運動場」「森林経営」「動物園」「植物園」と、非常に近代的で明確な公園像を描く内容になっている。わずか15年の間に、公園管理の方針がここまでドラスティックに変化してしまったのだ。
この記事では、戦前期における奈良公園の開発計画の変化の過程と、その社会的背景を整理する。
目次
公園開発加速の要因
はじめに、奈良公園の開発計画が加速するに至った要因として、
- 社会背景の変化
- 山林開発と民有地の買収
- 本多静六の講演開発論
という3つの可能性を紹介する。
社会背景の変化
はじめに、当時の観光開発と景観保全をめぐる全国的な潮流について整理する。結論から述べれば、景観に関する諸研究が指摘する通り、明治末期から昭和初期という時代は全国的にも景観・風致に対する意識が大きく変化した時代であるとされている。
例えば白幡[3]白幡洋三郎 「日本八景の誕生 ―昭和初期の日本人の風景観 」『環境イメージ論 人間環境の重層的風景』弘文堂、1992。は、日本人が自然風景に対し評価と関心を持ち始めた最初期の事例として、明治末期に小島烏水によって書かれた『日本山水論(1905)[4]小島烏水『日本山水論』、隆文館、1905。』『日本アルプス(1910)[5]小島烏水『日本アルプス』、前川文栄閣、1911。』をとりあげている。また1927(昭和2)年に東京日日新聞社、大阪毎日新聞社によって発表された「日本新八景」を取り上げ、後に熱狂的なブームを巻き起こしたこの企画を国民全体に風景への関心が高まっていた一つの契機であったと捉えた。また青木[6]青木 陽二「明治以降の著書に見る風景理解の変遷に関する研究」『ランドスケープ研究』2000、 64(5)、pp. 469-474。も、国会図書館における風景に関する蔵書の変遷から日本人の風景理解のあり方を追いかけたその調査を経て、同様の結論を見いだしている。同じく昭和2年には観光ガイド『風景お国自慢[7]東京日日新聞社会部『風景お国自慢』1927。』が出版されるなど、風景の観光資源としての利用価値も注目され始めており、昭和5(1930)年には鉄道省が国際観光局を、同年には京都市が全国で初の観光課を、それぞれ設置した。
加えて、自動車の発達と交通インフラの充実がこのレクリエーションブームの追い風となった。すでに人力車は 明治29(1896)年に、乗用馬車は大正5(19165)年にそのピークを迎えており、路面電車も関東大震災後の大正13(1924)年を契機に衰退を見せ始め、かわって公共交通機関としてバスが確固たる地位を築いたという。すでに明治36(1903)年には乗り合い自動車業者が登場しており、昭和2(1926)年には乗用自動車の利用数も3万台を突破した[8]日本国有鉄道編『日本国有鉄道百年史 通史』成山堂書店、1997、p258。。
こうした自然景観への関心の高まりと観光開発ブームは、その一方で自然景観や史跡の保護を求める運動をも誘発した。戦前の景観保護政策の中でも重要なものとして、大正8(1919)年に施行された史蹟名勝天然紀念物保存法や都市計画法の風致地区制度が挙げられる。前者は生物学者三好学を始めとするアカデミズムを推進力としながら、後者は都市計画家の池田宏の欧州研究を下地としながら、それぞれ近代日本において土地の現状変更や所有権に制限を課すことができる仕組みを整え、相互補完的に運用された[9] … Continue reading。
一方で、ドイツに造林を学んだ本多静六やその門下生である上原敬二・田村剛など、造林・造園学を出自とする研究者による運動も並行して展開された。例えば1931年(昭和6年)「国立公園法」の制定は、その代表格とも言うべき制度といえるであろう。田村はその著書に於いて「風景地の風致保健的利用と他の産業事業、例えば農、林、鑛業、水力電氣等の經濟事業との撞着[10]田村剛『国立公園の事業と經濟問題:國立公園1(1)』1929、pp.17-19。」が国立公園の最優先としており、かならずしも凍結的な風景の保存を目標とするよりは、むしろ積極的な経済発展や開発行為と結びつけることを念頭においていた。村串[11]村串仁三郎『国立公園成立史の研究』法政大学出版局、1905、pp. 60-69。や田中[12]田中正大『日本の自然公園』1981、相模選書、pp. 134-139。や赤坂[13]赤坂信「大正末期から昭和初期における名勝保護と公園事業をめぐる議論」『日本都市計画学会都市計画論文集』 2004、39(3) 、pp.199-204。はこうした状況を指し、風景保護と風景利用、上原敬二と田村剛、あるいは内務省官房地理課と内務省衛生局保健課など、風景の利用と保存をめぐる対立的な側面があったことを指摘する。
観光産業に依存している奈良県もまた、こうした観光と景観を巡る駆け引きとは無縁でいられない。名所旧跡を活かした遊覧客の増加の他にめぼしい収入源を持たない奈良県(奈良市)は、明治時代の後半、なし崩し的な公園の近代的開発に着手し始める。とりわけ影響の大きかった出来事として、明治33(1900)年の山林開発計画と、明治42(1909)年の本多静六による公園改良、そして、大正11(1922)年における史跡名勝天然記念物保存法指定は、その後の奈良公園行政に大きな影響を与えることとなる。
山林開発と民有地の買収
明治期において、公園は多数の民家や田畑に隣接していたが、奈良公園はこれを「風致を損ねる」という理由から、漸次その土地を買収・整備していくことを目論んでいた。その財源として白羽の矢が立ったのが、公園敷地の9割を占める山林の林業化であった。当初は公園の風致を守るための計画であった本プロジェクトだが、その後の公園の近代化に与えた影響は大きいと考えられる。
奈良公園開発の加速化は、明治33(1900)年に寺原知事から内務大臣宛になされた、奈良公園の山林開発に関する上申[14]奈良県立図書情報館所蔵『奈良公園林伐採一件』1921。に端を発する。まずはその背景と目的を見てみよう。
乾一第一号
奈良公園立木伐採ノ義ニ付上申
奈良県ハ地勢上商工業ノ地ニ非ス、(中略)、将来奈良県ノ繁栄ヲ求ムルハ一層公園ノ善美ヲ期シ観覧者多数ノ来遊ヲ誘起スルノ外良策ナク、従フテ名所旧蹟中数年星霜ヲ経、時世ノ変遷二伴ヒ大二廃頽セル箇所ハ専ラ復旧古形ヲ存シ、朽ヲ去リ穢ヲ除キ風致ノ増スヲ努メ、大二面目ヲ改メ尚ホ規画致居候処、何分公園全般影響スル処ノ民有地ハ園内ニ包含或ハ錯雑シ一見異様ノ体裁アルヲ以テ、其必要ナル土地ハ公園ニ編入セサルヲ得ス、殊ニ其民有地ノ内ニハ目下頗ル荒廃シ大ニ改善ヲ要スル処アリ、……
奈良県立図書情報館所蔵『奈良公園林伐採一件』1921
第一に見えてくるのは「奈良県ハ地勢上商工業ノ地ニ非ス」という諦観と「将来奈良県ノ繁栄ヲ求ムルハ一層公園ノ善美ヲ期シ、観覧者多数ノ来遊ヲ誘起スルノ外良策ナク」という観光化への焦燥感である。そのためには「殺風景」で「園内ニ包含或ハ錯雑シ一見異様ノ体裁アル」民有地を買収し、「朽ヲ去リ穢ヲ除キ風致ノ増スヲ努メ」なければならないとある。 いずれの主張も公園開設初期から繰り返し主張されてきた内容である。しかし、その規模と手段については、従来の奈良公園開発のそれと一線を画するものであった。
……(承前)其財源ハ到底公園内ノ山林二拠ラサルヘカラス、就テハ客年来其財源ノ調査ニ着手シ数月ヲ経テ完成、其結果ニ依リ春日山・花山ハ毫モ風致ニ支障ナキ渓谷二於テ区域伐採ヲナシ、又芳山ハ松之ガ主要植物ニシテ天然生育ノ為メ頗ル乱雑ナル粗木ノ多キ以テ、此儘維持スルモ左程財源ヲ増スノ望ナク、其内良木ト認ムルモノヲ除キ又風致二支障アル処ヲ避ケ、伐採ノ上之レガ適当ナル植林法ニ因テ経営スルノ得策ナルコトハ山林経験家ノ夙ニ認ムル処ニシテ、何レモ伐採ノ樹木中ニハ神仏ニ係ワルモノハ勿論、珍異奇種ト認ムルモノ等ハ毫モ之レナキヲ以テ、此際之レヲ伐採シ、
(中略)
而シテ山林ノ伐採地ハ直ニ杉檜ヲ植栽シ百年ノ収益ヲ計算セハ、優ニ六拾万円余ノ山林ヲ造成シ、即チ財源ノ増殖ト相須テ永遠ノ長計ヲ図ルニ必要欠クヘカラサル事業ト確信仕候、明治三十三年一月六日一知事内務大臣宛
奈良県立図書情報館所蔵『奈良公園林伐採一件』1921
それは、奈良公園敷地内の90%以上を占める山林を開発し、伐採から植林までを行う本格的な施行林へと開発する、大規模なものであった。実は奈良公園はこれまでも公園敷地内の樹木を伐採し、公園の運営・開発財源としてきた経緯を有している[15] … Continue reading。しかしこれらの伐採はあくまで枯損木、すなわち枯れたり腐ったりして風致や他の樹木の発育を阻害する樹木を対象としたものであり、その利用用途もせいぜい薪炭に供する程度の小規模なものであった。しかしここに来て奈良公園は、観光振興を目的に、風致上影響の少ない奥山の施行林化・産業化に踏み切ったのである。
この公園林開発は、吉野林業の専門家による調査などを経つつ実施され、さらに翌年(1901年)には、より奥山である芳山での開発計画も申請[16]前掲 奈良県立図書情報館所蔵『奈良公園林伐採一件』1921 。された。たとえ伐採する箇所が風致に支障のない奥まった山林であると言えども、遊覧客増加のために園内の山林を伐採するという発案は、従来の保守的な公園開発方針に比すれば、非常に積極的なものと言える。
本多静六の講演開発論
さらに紹介したいのが、日本を代表する林業家・造園家である本多静六が手掛けた、奈良公園改良計画についてである。明治42(1909)年、当時日比谷公園の設計を果たしたばかりだった造林造園学の俊英本多静六が、青木知事による招聘に応じて奈良を訪問した。彼は実地調査の結果奈良公園の改良計画案を提案し、奈良公園改良講話として壇上にてその内容を発表[17]奈良県立図書情報館所蔵『明治21年起 公園創設、拡張及其他重要事項本省往復一件』、1926。した。
本多はまずその冒頭で、当時の公園平坦部の魅力を以下のように捉えている。
先ズ、当公園ノ特徴トスル点ニ就テ一言センニ、地ハ我邦所所謂奈良ノ都ノ旧址ニシテ名所旧蹟ニ富ミ、荘厳ニシテ且由緒アル神社仏閣各所ニ点在シ、広袤五百弐拾四町歩到ル処天然ノ風致ヲ存スル鬱蒼タル大森林ヲ有シ、幽靈閑雅ナル清境自ラ森厳崇高ノ趣ヲ備へ、春日神社附近ニ到レバ人ヲシテ神々シキ一種ノ霊気ニ打タレスムルノ概アリ、斯ノ如キハ他ニ比類ナキ特徴ニシテ、次デ麇鹿ノ園内至ル処ニ悠々トシテ逍遥シ行人ニ近接シテ少シモ恐怖ノ態ナキ風趣モ亦当公園ノ特徴ノ一トナス、……
奈良県立図書情報館所蔵『明治21年起 公園創設、拡張及其他重要事項本省往復一件』、1926
ドイツにて造林を学び、日本初の近代的都市公園を手掛け、後に東京駅前のランドスケープデザインなども手掛けた本多であるが、少なくとも「荘厳ニシテ且由緒アル神社仏閣」「天然ノ風致ヲ存スル鬱蒼タル大森林」「幽靈閑雅ナル清境自ラ森厳崇高ノ趣」を、当時の公園平坦部の特色として称えている点において、明治初期の公園行政と同じ奈良公園を捉えていたといえるだろう。
しかし、こうした魅力的な森林や社寺をどのように利用するかという点において、本多の主張は特異であった。まず、前述の山林部の施行林経営に関しては
……承前)其他彼ノ芳山・花山ニ於ケル我国ノ林業上最モ著名ナル吉野造林法ニ模倣セル百八十万本ノ杉檜栽植地ノ如キ、成育佳良ニシテ将ニ吉野式森林ノ標本タラントセル如キ亦重要ナル特徴ノ一ニ算セザル可カラズ、要之ニ此等ノ特徴ハ総テ之ヲ充分ニ発揮シ之ヲ活現セシムルコト公園経営ノ原則トナス、……
奈良県立図書情報館所蔵『明治21年起 公園創設、拡張及其他重要事項本省往復一件』、1926
と、その開発を前向きに評価しており、その継続的な施行を推奨している。次に、平坦部の利用については、老若男女が楽しめる娯楽施設として①大運動場、②動物園、③植物園の3つを建設し、さらにそれらを周遊鉄道にて接続し園内を一周させるという、すこぶる大胆な内容を披露した。
……承前)電車ノ敷布ハ投稿円ノ特徴ヲ遺憾ナク発揮スルニ就テノ先決問題タリ、以下述ベントスル設計事項ノ如キモ亦皆之ニ基カザルナシ、余ハ当公園ノ為メ、此事業ノ遂行ヲ希望シテ止マザル者ナリ、公園ハ一面幽邃閑雅ノ自然的風趣ニ富ムヲ要スルト共ニ一面亦風致ヲ損セザル範囲ニ於イテ一般世人ヲ楽マシムルノ通俗的設備ヲ必要トナス、彼ノ正倉院ヲ拝観シ帝室博物館ヲ観覧シテ娯ムモノハ極メテ少数ナレバ、社会多数ノ民衆ヲ誘致シ老幼婦女子ヲ問ハズ均シク其娯楽ヲ享受セシメ足ヲ蹕メシムルニハ、当公園ニ大運動場・動物園・植物園ノ三者ヲ設備スルノ必要アルヲ感ジタリ、即チ是ヨリ其設計ノ大要ヲ述ベントス、(以下省略)
奈良県立図書情報館所蔵『明治21年起 公園創設、拡張及其他重要事項本省往復一件』、1926
本多はその他、小規模な改良案として「地獄谷国有林の買収と溜池の建設」「若草山山上ホテルの建設」「公園案内記の充実」なども提案している。その一方で、千年以上の歴史を有する正倉院やその宝物を展示する帝国博物館(現奈良国立博物館)に至っては「彼ノ正倉院ヲ拝観シ帝室博物館ヲ観覧シテ娯ムモノハ極メテ少数」と断言して憚らない。
本多は昭和10代年から20年代にかけて、郊外の風景地・観光地の自然景観施策を林学家の立場から計画した『風景利用策[18] … Continue reading』を展開したが、今回の奈良公園改良講話はそのプロトタイプともいうべき画期的な提案である。
加速する公園開発と、対立する保存運動
以上、3つの背景を踏まえた上で、改めて章の冒頭で紹介した明治42(1909)年の「奈良公園改良調査会規則[19]奈良県立図書情報館所蔵『明治四十二年四月 奈良公園改良調査関係書類 公園係』1916。」の詳細を見てみよう。ちなみに時系列的には、この内容は上述の本多静六による講演会の直後に作成されたものである。
奈良公園改良調査会事務分掌
第一部
一電気鉄道布設設計ノ事
一公会堂西北運動場河換道路ノ設計、公私潰池ノ測量及其予定価額調査ノ事
一大仏前四辻ヨリ公会堂ニ達スル道路取拡メ設計、潰池交換地ノ測量及其予定価額調査ノ事
一嫩草山南麓溜池予定地測量及築堤設計ノ事
一花山第十二区内溜池設計及潰池ノ測量設計及潰池予定価額調査ノ事
一地獄谷溜池堤塘(六尺以上)増築及中島設計ノ事
一春日山第七区(月日ノ上) ヨリ南部滝坂新道ニ連絡スル道路開鑿調査設計ノ事
一神鹿飼養区域及動物園・植物園・牆柵等測量及設計ノ事第二部
一花山第一区ヨリ大原橋迄道下タ全部ノ立木及春日山第二十区裏面ノ立木全部ノ調査ヲ為スコト但、道路上下ノ区別ヲ要ス、
一春日山内伐採見込ノ各区ニアル杉樹ノ位置ヲ調査スルコト
一本項調査ハ腐朽ノ程度三階ニ区別シ甲乙丙ノ三種ニ調査スルコト
一前項ノ調査ハ各廻尺目通長間、材積、薪炭材料及予定価額等ノ調査ヲ為スコト
一春日山・花山・芳山杉檜植林地ヲ調査シ将来年々ノ収獲予算ヲ計上スルコト第三部
一動物園・植物園其他公園内ニ必要ナル設備ニ関スル事項
奈良県立図書情報館所蔵『明治四十二年四月 奈良公園改良調査関係書類 公園係』1916
奈良県内務部長を会長に据え、関係各課の人員で構成された本委員会は、奈良公園の管理・開発にあたりその役割を3つに分類した。分類基準の詳細は不明だが、第一部が公園全体のインフラを、第二部が山林部を、第三部が平坦部を、それぞれ公園空間別に分担したと見て良いだろう。次にその詳しい業務内容についてであるが、一読して「電気鉄道」「道路・橋梁」「運動場」「動物園」「植物園」といった近代的な公園開発を彷彿とさせる単語が目に留まる。また山林の扱いについても、風致や景観という文脈は消え去り、「伐採」「予定額」「収穫予算」という施行林としての規則であることが読み取れるだろう。加えて、「公私潰池ノ測量」が求められていることから、悲願であった「猥雑な建物や民有地」の買収が進捗していることもわかる。
このように戦前の奈良公園は、明治末期に活発化した公園開発の機運を受け、
- インフラ整備
- 山林経営
- 公園施設の建設
という3つを軸とした数々の観光開発を推進した。
しかし当然、これらの開発運動は、奈良公園の自然や文化財を破壊から守ろうとする運動も誘発した。特に大正11(1922)年での、奈良公園の名勝地指定はその代表である。その他にも、急激な工業化・資本主義化を食い止めるべく、大正8(1919)年に交付された史跡名勝天然記念物保存法[20] … Continue readingについて言えば、奈良県では大正2(1911)年にはすでに「奈良県史蹟勝地調査会規則」を定め、積極的に保存運動を進めていたのである。この度、同法律にもとづく「史蹟名勝天然紀念物調査会官制」も公布された。その後、大正13(1924)年、大正15(1926)年、昭和2(1927)年などにおいて一部地域の追加していや範囲解除が行われる。
以下、公園の開発を推し進める運動と、伝統的な公園景観の保全を訴える勢力、それぞれが公園を舞台にぶつかり合った影響と、公園空間の変遷について示す。
インフラ整備
公園開発第一の課題は、広大な面積を有する公園の周遊を促す、交通網の整備である。とりわけこの時代は鉄道の発達や自動車の台頭など、近代的な交通手段が勢力を増した時代であり、公園側にも来遊者の増加や道路施設の刷新に対する対応が求められていた。しかし道路の拡幅や舗装は、周辺敷地の圧迫や風致の侵害、あるいは生態系への影響などの点からみれば望ましいものとは言い難いく、園内のインフラ開発は様々な対立を招く事となる。
例えば「春日奥山周遊道路」の車道化は、近代化と公園保存の対立激化を象徴する出来事と言えるだろう[21]以下、春日奥山周遊道路に関する変遷については、奈良公園史編集委員会編『奈良公園史 本編』奈良県、1982、pp.322-325参照。。明治33(1900)年に開かれた「春日奥山周遊道路」は、当初遊覧客の遊歩道として、あるいは公園林樹木の伐出路として完成したものであるが、大正13(1924)年ごろにはその車道化が計画されていた。これは本多静六の園内周遊鉄道の代案として浮上した企画であり、大阪電気軌道(現近畿日本鉄道)の寄付も受けて昭和3(1928)年に第一期工事が竣工。翌年には第二期工事が始まり、昭和5(1930)年には完了。その2年後には若草山山頂も含めた現在の自動車道が完成した。しかし工事計画が立ち上がる大正13(1924)年は、同時に春日山原始林が天然記念物に指定され、地獄谷石窟仏と春日山石窟仏が史蹟に指定された時期でもあった。昭和4(1929)年、第二期工事が着工されると、その実施が大問題となる。同年文部科学省は、生物学者である三好学博士や内田圭助博士からの調査報告を受け取ると、一連の公園開発は奈良公園の重大な現状変更であるとしてその中止を通達する騒動となった。結局、道路開発は中止には至らなかったが、県はこの問題に対して、奈良特有の古典的雰囲気を損傷しない旨を示した「春日山原始林保存方針」を決定し、文部省もこれを認める。さらに「奈良公園山林部道路使用料条例」並びに「同自動車通行時間」を制定し、ソフト面から森林景観の保全や動植物の保護をすすめることとなった。
道路開発が問題となったのは山林部にかぎるものではない[22]以下、公園平坦部の道路開発に関する経緯は、前掲『奈良公園史 本編』pp.343-350参照。。昭和4(1929)年には国道15号線(現在の国道24号線)の付け替えと拡幅が立案されるが、東大寺境内を縦断するものであるとして東大寺が計画変更を陳情する。当時は東大寺が史蹟に指定されていないこともあり、奈良県土木課は一次これを跳ね除けるが、最終的には現在の転害門前道路の拡幅に計画が修正され、東大寺境内も昭和7(1932)年に「東大寺旧境内」として指定された。
続く昭和11(1936)年、今度は奈良ホテル前を通過し天理へと続く「都市計画道路ホテル線」の拡張工事計画が、奈良ホテル所有である鉄道省と対立。さらに同道路が旧大乗院庭園敷地を通過するものであるとして日本庭園協会等による反対運動を巻き起こした。彼らの反対運動は実を結び、昭和14(1939)年には、道路は庭園跡地を迂回するように路線が変更された。鉄道省も、道路に面する敷地の売却に承服し、翌年道路は完成を迎える。
一方若草山の麓でも、にわかに対立の火がくすぶり始める。昭和12(1937)年に水谷川橋から手向山八幡宮にいたる自動車専用道路を開設する計画が提出された。これに猛反対を訴える奈良史蹟愛護連名や観光業者・人力車夫組合と、計画に賛意を示す奈良実業協会がそれぞれの意見を表明しあい、観光利権も絡む大激論が巻き起こった。なお工事は昭和13(1938)年に鍬入式が執り行われ、翌年には通行が許可された。
加えてこの時代、奈良公園には奈良市の水源というもう一つの役割も期待されていた。例えば現在奈良ホテルの北には荒池が広がるが、天正17(1589)年に豊臣秀長により「荒池」という同名の池が掘削されたとされている。その後明治21年、奈良町の三条町・大森町・杉ヶ村が連盟で荒池を修造し、灌漑用水として改めて築造する。このように大規模な河川を持たない奈良市にとって奈良公園内を流れる水流は貴重な資源であり、すでに猿沢池の浚渫も繰り返されていた。明治40年には、荒池の中央に堤が盛られ、池を二分する道路が整備される他、大正11年の名勝追加指定の際、荒池園地周辺が「風致上必要な名勝地」に指定された。
その荒池の上流にある鷺池は、浅茅ヶ原の水系整備の一環として明治37年に開削計画が立てられ、明治41年に築造されたものである。大正5年には更に池の中央に浮御堂と呼ばれる休憩施設が建造された。また、本多の提唱した地獄谷国有林の開発と、貯水池の建設も水面下では進行しており、次章にて取り上げる昭和12(1937)年の「県政調査」では公園改良の課題の一つとして取り上げられることとなる。
山林経営
明治33(1901)年から始まった10カ年の公園山林伐採計画が終りを迎えた明治43(1911)年の一月、当時の青木知事は大規模な公園開発の財源を確保するべく、さらなる公園山林の伐採許可を内務大臣に具申[23]以下、山林開発に関する経緯は、前掲『奈良公園史 本編』pp.259-261、pp.311-320参照。する。さらに翌44(1912)年にも、若林知事による再上申するが、内務省はこれを受理しない。「公園経営は枯損木や間伐木の収入でまかなえる範囲で行うべきである」というのが、内務省の意向[24]奈良県立図書情報館所蔵『奈良公園林伐採一件』1921。であった。
内務省三四衛第一号
客年一月勧第五一号ヲ以テ奈良公園樹木伐採ノ件上申相成候処、該公園経営ニ関シテハ緊急必要ノ事業多々有之義トハ被存候へ共、不用木伐採等ノ収入アルニ際シ、其範囲内ニ於テ施設セラルルハ格別、最初ヨリ事業ヲ目的トシテ伐採ヲ行ハルルカ有之候テハ甚他遺憾ニ有之……
(以下略)明治四十四年八月廿八日内務省衛生局長 小橋一太印奈良県知事 若林賚蔵
奈良県立図書情報館所蔵『奈良公園林伐採一件』1921
しかしその後も公園の改良計画はとどまることはなかった。奈良県は大正元(1912)年及び大正10(1921)年の暴風雨による林相の修復と、今後100年にわたる山林維持を理由に、大規模な植林・伐採を提案することになる。これまで庶務課公園係が担っていた公園行政はこれを期に公園課として独立を果たし、公園技師である坂田静夫公園課長による公園林経営計画書も作成された。大正13(1924)年には県知事が内務大臣に公園林の施行計画案を上申[25]奈良県立図書情報館所蔵『奈良公園改良管理並改良計画書』1924。する。
公第三十三号
大正十二年十月二十五日起案(翌十三年二月十五日施行)
知事内務大臣宛公園林経営ニ関シ許可申請之件伺当奈良公園林中字芳山及花山植林地ヲ除キタル春日山ハ、従来枯損風損木ヲ伐採処分ノ上、其収得ヲ以テ、公園施設経営ノ費用ニ充当シ来リタリシモ、去大正元年及全十年両度ノ暴風ニ多大ノ損害ヲ蒙リ著シク林相ヲ破壊セラレタルノミナラス、年々歳々枯損木ノ伐採ニ由リ、漸次荒廃ノ徴ヲ示シ、公園林トシテノ風致ヲ永遠ニ維持スルハ困難ナルヘク、殊ニ公園ノ経営ハ年々多額ノ費用ヲ要シ、到底不確実ナル枯死風倒木三期待スル能ハサルハ勿論、従来ノ経営方法ヲ踏襲スルトキハ年ヲ経ルニ従ヒ益々林相ノ荒廃ヲ拡大スルニ至ルヘクト被存候ニ付、此際経営ノ方法ヲ 変更シテ風致維持上重要ナル箇所ノ美観ヲ永遠二保持セシムル為、適当ナル施業ヲ為スト共ニ芳山花山人工林ノ輪伐収入ヲ得ルニ至ル迄ノ期間確実ナル資源ヲ得ル為、奈良市ノ反面二位置シ風致上ヨリ観察シテ関係最モ少ナキ春日山第十七区乃至第二十区ノ内、巡遊道路ノ沿線及山頂ノ一部ヲ除キタル他ノ区域ニ於テ適当ナル伐採更新ヲ行ヒ、以テ確実ナル収入ヲ得ヘク企図スルハ極メテ喫緊ノ事ト相認メ侯ニ付、之ヵ目的ヲ達成セムカ為、今後公園林ハ別紙計画書準拠シテ施業致度ト存候条、右事情御語察ノ上、何卒御許可相仰度、此段申請候也、
奈良県立図書情報館所蔵『奈良公園改良管理並改良計画書』1924
内務省も「該整理ニ際シテハ専ラ名勝トシテ風致ヲ保存スルコトヲ念トセラレ、殊ニ春日山ノ整理伐採ニ付イテハ其ノ整理地域ニ隣接セル保存、老樹地帯トノ風致ノ調和ヲ慎重ニ御考慮ノ上実行セシメラレ度、此段依命通牒候、[26]前掲『奈良公園改良管理並改良計画書』。」と厳重注意を加えた上で、ようやくこれを了承することになる。
施設建設
明治21年の奈良倶楽部(現存せず)、明治27年の帝国奈良博物館(現奈良国立博物館)、同じく明治27年の旧奈良県庁舎(現存せず)など、奈良公園の内部や周辺には多数の公共建築や観光施設が建てられてきた。山林経営で財源を得た奈良公園は、公園隣接の民有地買収を進める中でさらなる公園施設の建設を次々と計画してゆき、民間もこれに続いてゆく。以下、その内容を見ていこう。
明治33年の山林経営から明治42年の本多静六による講演会までの間に作られた施設として、「旧奈良県物産陳列所(現仏教美術史料研究センター)」「旧奈良戦勝記念図書館(郡山城内に移築)」「奈良ホテル」が挙げられる。
奈良県物産陳列所は、帝国博物館敷地に隣接して明治35年に落成された、建築家関野貞による物産共進会の会場施設である。「県内物産ノ改良振興ニ資スル為本県所産ノ農産工産林産水産鉱産ニ関スル物品及其参考上有益ノ内外国物品ヲ陳列シ公衆ノ縦覧ニ供ス」ために作られた本施設は、その後「奈良県商品陳列所(大正10年)」「奈良県商工館(昭和9年)」とその名を変えながら、本県における商工の発展を支え続けた。
奈良戦勝記念図書館は、明治41年に現在の興福寺境内に建設された、文書典籍を保管する施設である。日露戦争の戦勝を記念して建設されたという背景を持ち、図書の蒐集・保管・閲覧に加え、戦病死者の遺物履歴の保管と勲功表彰をも施設の目的とされていた。設計監督は橋本卯兵衛が手掛け、竣工直後には陸軍統監部としても扱われることとなる。
奈良ホテルは外国人観光客の増加を好機と捉えた都ホテル創始者西村仁兵衛が、関西鉄道の出資と奈良市の協力を受けて計画した、奈良初の本格的な洋風ホテルである。当初は東大寺南大門東側を用地として進められた本計画であったが、後に現在の建設地である高畑飛鳥山にその舞台を移し、辰野金吾・片岡安らの手によって設計がなされた。
一方、本多静六の講演会で提唱された近代娯楽施設からも、「大運動場」「植物園」の2つは実現を果たした。
特に運動場については、講演会と同年の明治42年には奈良公園改良諮詢委員会にて諮問され、翌年にはすでに着工された。十年前には民家と耕作地が広がっていた鄙びた春日野に、一周400メートル・直線コース200メートル、さらに五段の観覧席と控室浴室を完備した、西日本最大の競技場が突如として実現したのである。さらに大正14年には運動場東側にテニスコートが、昭和4年には御大典記念事業として水泳場が建設された。
一方競技場建設に遅れること昭和2年、同じく本多静六発案の植物園構想[27] … Continue readingも、実現に向けてようやく舵を切った。計画の背景には、来たるべき昭和大典の奉祝や、新聞社を中心とした天平文化宣揚も影響しているとされる。紆余曲折を経た昭和7年、万葉学者佐々木信綱による万葉植物園期成会が集めた寄付金と、造園家大屋霊城による250種類もの植物を配した造園計画が出揃い、春日大社の旧鹿園敷地にようやく「春日大社神苑 萬葉植物園」が誕生した。
References
↑1 | 奈良県立図書情報館所蔵『明治二十七年 奈良公園改良ニ係ル書類 一』1894。 |
---|---|
↑2 | 奈良県立図書情報館所蔵『明治四十二年四月 奈良公園改良調査関係書類 公園係』1916。 |
↑3 | 白幡洋三郎 「日本八景の誕生 ―昭和初期の日本人の風景観 」『環境イメージ論 人間環境の重層的風景』弘文堂、1992。 |
↑4 | 小島烏水『日本山水論』、隆文館、1905。 |
↑5 | 小島烏水『日本アルプス』、前川文栄閣、1911。 |
↑6 | 青木 陽二「明治以降の著書に見る風景理解の変遷に関する研究」『ランドスケープ研究』2000、 64(5)、pp. 469-474。 |
↑7 | 東京日日新聞社会部『風景お国自慢』1927。 |
↑8 | 日本国有鉄道編『日本国有鉄道百年史 通史』成山堂書店、1997、p258。 |
↑9 | 黒田乃生、小野良平「明治末から昭和初期における史蹟名勝天然紀念物保存にみる「風景」の位置付けの変遷」『ランドスケープ研究』2004、67(5)pp.597-600。 原泰之「戦前期における風致地区制度の位置付けに関する歴史的考察」『ランドスケープ研究』2006、69(5)、pp.813-816。 |
↑10 | 田村剛『国立公園の事業と經濟問題:國立公園1(1)』1929、pp.17-19。 |
↑11 | 村串仁三郎『国立公園成立史の研究』法政大学出版局、1905、pp. 60-69。 |
↑12 | 田中正大『日本の自然公園』1981、相模選書、pp. 134-139。 |
↑13 | 赤坂信「大正末期から昭和初期における名勝保護と公園事業をめぐる議論」『日本都市計画学会都市計画論文集』 2004、39(3) 、pp.199-204。 |
↑14 | 奈良県立図書情報館所蔵『奈良公園林伐採一件』1921。 |
↑15 | もともと明治10年に設置された興立者の運営は、当時の奈良町民有志の寄付によって賄われており、これは興福寺境内が正式に十六号公園として認可された明治12年以降も同様であった。しかし、寄付による公園運営には限界が来る。公園が大阪府の所管に編入したその4年後の明治18年7月、大阪府は公園地や名勝地の枯損木の売却代金や借地料を積立て、その維持管理に充てる独立会計の上申「庶五〇七九名勝地枯損木並下草代金及借地料之儀ニ付伺」を内務省に提出し認可を受けた。 その後、公園樹木の伐採は明治21年に官林地をその敷地内に編入したことを受け、さらなる本格化を見せる。明治21年8月には吉野郡から杣師数名が派遣され、公園林の枯損木調査と、公売・治山指導を依頼している。さらに明治23年、拡大した公園敷地改良の第一歩として奈良県は奈良公園特別経済を予算化する。枯損木の伐採で生じた余剰資金を積立て翌年以降の改良費に充てる措置である。明治26年10月には公園内の樹木伐採やその公売の手続きをまとめた「奈良公園産物入札規則及伐木規則」が、翌27年6月には公園改良諮詢会の規則がまとめられた「奈良公園改良諮詢会規則」がまとめられる。そして明治27年7月、奈良県庁舎の新築が議決したが、その庁舎の建材として芳山15区から18区及び花山9、10区の立木が用いられた。枯損木のみならず立木にも伐採が及び、その跡地には40万本の杉が植え付けられた。以上の経緯は、奈良公園史編集委員会編『奈良公園史 本編』、奈良県、1982、第一章から第三章に詳しい。 |
↑16 | 前掲 奈良県立図書情報館所蔵『奈良公園林伐採一件』1921 。 |
↑17 | 奈良県立図書情報館所蔵『明治21年起 公園創設、拡張及其他重要事項本省往復一件』、1926。 |
↑18 | 熊谷洋一、下村彰男、小野良平「マルチオピニオンリーダー本多静六,日比谷公園の設計から風景の開放へ」『ランドスケープ研究』1995、58(4)pp.349-352。小川徹、真田純子「「風景利用策」に見る本多静六の自然風景の利用に対する考え方について」『土木学会論文集D2』2012、68(1)、pp.38-48。手嶋潤一、堀繁「「日光一帯の山水風景利用策」(大正3年)における本多靜六の風景地計画に関する研究」『都市計画論文集』1994、 29、 pp. 343-348。 |
↑19 | 奈良県立図書情報館所蔵『明治四十二年四月 奈良公園改良調査関係書類 公園係』1916。 |
↑20 | 以下、「史蹟名勝天然紀念物保存法」の指定に関する経緯と内容については、奈良県土木部まちづくり推進局公園緑地課、奈良県教育委員会文化財保存課『名勝奈良公園保存管理・活用計画』奈良県、2011、pp.9-23を参照。 |
↑21 | 以下、春日奥山周遊道路に関する変遷については、奈良公園史編集委員会編『奈良公園史 本編』奈良県、1982、pp.322-325参照。 |
↑22 | 以下、公園平坦部の道路開発に関する経緯は、前掲『奈良公園史 本編』pp.343-350参照。 |
↑23 | 以下、山林開発に関する経緯は、前掲『奈良公園史 本編』pp.259-261、pp.311-320参照。 |
↑24 | 奈良県立図書情報館所蔵『奈良公園林伐採一件』1921。 |
↑25 | 奈良県立図書情報館所蔵『奈良公園改良管理並改良計画書』1924。 |
↑26 | 前掲『奈良公園改良管理並改良計画書』。 |
↑27 | 奈良市史編集審議会編『奈良市通史 自然編』pp.185-189。及び、黒岩康博「奈良万葉植物園の創設過程」『ランドスケープ研究』71(5)、pp880-884、2008 03。 |