戦前の出版物にみる、ブランド化する奈良公園の芝生景観

若き日の志賀直哉(wikiより)

 この記事は、奈良公園を取り上げた戦前の文学作品や観光パンフレットの中から、奈良公園の芝生について描写したものを抜きだし、分析する文章である。なぜそのようなことを調査するのか?それは、奈良公園の芝生景観が誕生したのが、ちょうど明治末期から昭和初期にかけてのことであるという、筆者の仮説を裏付けるためである。

 奈良公園は明治時代に誕生した都市公園であるが、その誕生当時においては敷地にほとんど芝生景観を有していなかったことが、当ブログの研究により明らかになっている。

 代わりに明治の奈良公園で、とりわけ注目されていた植物とは松や杉といった樹木であった。そのため行政文書においても、その文面に「芝生」の文字が出始めたのは明治末期から大正・昭和期にかけての時代であった。

 そこでこの記事では、この時代の文献から奈良公園の芝生を描くものを可能な限り収集し、それぞれにおいて森林と芝生がどのような景観要素として描写されていたかを分析することで、かつての人々の共有していた「奈良公園らしい風景イメージ」が、森林風景から芝生風景へと変化していく様子を明らかにする。

本章で利用する文献

奈良公園を描いた文学作品(青空文庫収録)

 空間イメージの定着とは、必ずしも開発主体や公園管理の当事者が先導するものとは限らない。むしろ、公園を訪れる文化人や観光客による第三者目線での評価こそ、当時の時代背景や公園の潜在的な魅力を的確に反映する点において、より「公園らしさ」が共有される要因となりうるだろう。そこで奈良公園の芝生を捉えた外部の視線として、奈良公園を取り上げた文学作品における芝生景観の描写を採用し、異なる角度から当時の景観イメージの分析を行う。

 人間は視覚で捉えた情報を一様に処理しているのではなく、感情や無意識の淘汰によって選択的に世界を捉えている。特に文学作品に描かれる風景とは、作者の価値認識や社会背景を反映したものであり、当時の人々がその土地や空間をどのように捉えていたかを映し出す鏡ともいえる。故に、風景について論じる近代の論表から風景理解の変遷を整理した青木の分析[1]青木 陽二「明治以降の著書に見る風景理解の変遷に関する研究」『ランドスケープ研究』2000、 64(5)、pp. 469-474。の他、芥川賞受賞作品群から自然景観のイメージ変遷を追いかける池田らの論考[2]池田朋子、大貝彰「1970~94年の芥川受賞作品群にみる自然景観イメージとその変遷」『日本建築学会計画系論文集』1997、62(494)、pp.161-168。、近世紀行文に描かれる景観表現を定性的に捉えた西田の研究[3]西田正憲「近世の紀行文等にみる山岳表象の特質」『ランドスケープ研究』2005、68(5)、pp.407-410。など、文学作品を分析対象とした景観研究の事例も豊富である。こうした既往の分析手法を踏まえつつ、戦前期奈良公園における自然景観の認識が変化していく過程を読み解いてく。

 本研究では、戦前に執筆された奈良公園に関する随筆・紀行文・詩歌15作品を大正とする。具体的には、青空文庫の全文検索機能において「奈良・公園・奈良公園・春日野」などの言葉で全文検索し、明らかに奈良公園に関する描写と判断できるデータを取り上げた。加えて、奈良公園史に記載のあった作品や、後述の国立国会図書館デジタルコレクション所蔵の作品、あるいは自力で発見した作品も追加した。
 確認できた作品は、薄田泣菫の『茶話03(1917)』から堀辰雄の『大和路・信濃路(1943)』までの全16作品で、そのうち芝生について描写・言及のあるものは8作品であった。この8作品における芝生の取り扱いを整理することで、他者から見た奈良公園の風景を読み解いていくこととする。

和暦西暦タイトル執筆分類所蔵底本データ
大61917茶話03薄田泣菫随筆『完本 茶話 上』冨山房百科文庫、1983
大71918汽車の窓から谷口梨花随筆『汽車の窓から』博文館、1927
大71918「奈良」に遊びて宮本百合子随筆 『宮本百合子全集 第三十巻』新日本出版社、1986
大71918日本名勝旧蹟産業写真集. 近畿地方之部西田繁造 編写真集『日本名勝旧蹟産業写真集. 近畿地方之部』富田屋書店、1918
大81919遊動円木葛西善蔵随筆『日本文学全集31 葛西善蔵・嘉村礒多集』集英社、1969
大81919茶話05薄田 泣菫随筆『完本 茶話 下』冨山房百科文庫、1984
大81919古寺巡礼和辻哲郎随筆『古寺巡礼』岩波文庫、1979
大91920奈良と鹿八田三郎随筆『奈良と鹿』官幣大社春日神社春日神鹿保護会、1920
大121923古美術行脚大和足立源一郎 等著随筆『古美術行脚大和』アルス、1923
大141925楢重雑筆小出楢重随筆『小出楢重随筆集』岩波文庫、1987
昭51930めでたき風景小出楢重随筆『小出楢重全文集』五月書房、1981
昭61931奈良の櫻志賀直哉随筆志賀直哉全集<第6巻> 沓掛にて 豊年虫』岩波書店、1994
昭131938置土産志賀直哉随筆志賀直哉全集<第6巻> 沓掛にて 豊年虫』岩波書店、1994
昭141939夢殿北原白秋詩集『白秋全集 10』岩波書店、1986
昭141939旅日記昭和十四年種田 山頭火詩集『山頭火全集 第九巻』春陽堂書店、1987
昭181943大和路・信濃路堀辰雄随筆『昭和文学全集 第6巻』小学館、1988
奈良公園を描いた文学作品一覧
(所蔵:「青」=青空文庫 「国」=国立国会図書館 「奈」=奈良県立図書情報館)

奈良公園を取り上げた観光ガイドブック(国立国会図書館デジタルコレクション所蔵) 

 公園景観を内部から見つめる公園行政と、外部から眼差す文化人に加えた第三の視点として、奈良公園を紹介する観光ガイドブックの描き方を取り上げたい。ガイドブックにみられる景観とは 、一般大衆からみた景観像と開発者の理想像、それぞれの意思を代弁したものと考えることができる。そのため観光案内を目的とした出版物は、北九州のガイドブックから観光地における視点場の探索と類型化を試みた日高の論考[4]日高 圭一郎 ほか 「観光画像情報からみた観光資源に関する一考察 : 北九州市を事例として」 … Continue readingや、女性誌における写真の背景を題材とした矢部の研究[5]矢部恒彦「若年女性対象の量販一般雑誌に掲載された都市の場景に関する研究」『日本建築学会計画系論文集』、1994、59(463)、pp.139-148。、名所図会より近世尾張の都市景観を分析した北原の調査[6]北原理雄「尾張名所図会に描かれた名古屋都市景観の研究」『日本建築学会学術講演梗概集』 1982、 p.1813-1814。、欧米諸国のガイドブックの掲載写真を都市景観を記述する史料と読み替えた神谷らの研究[7]神谷 文子、浦山 益郎、北原 理雄「主題要素の写され方からみた都市景観写真の構図に関する研究 : … Continue readingなど、古今東西あらゆる都市の景観を分析する手がかりとして扱われてきた。本節もこれに習い、戦前期に世に出た各種ガイドブックから、当時の奈良公園に対する市井の人々のイメージを読み解いていこう。

 利用した史料は、主に国立国会図書館デジタルコレクションの中から「奈良・近畿・関西・観光・案内・名勝・修学旅行」などの単語で検索して確認できたものを用いた。但し一部奈良県立図書館所蔵の絵図史料を併用している。その内容は以下の1899年『奈良名勝便覧』 から1938年『観光ガイド : 名古屋・岐阜・三重・奈良』に至る39年分の史料28冊である。

和暦西暦タイトル発行・執筆分類所蔵
明321899奈良名勝便覧筒井梅吉 著ガイド
明331900奈良市實測全図筒井梅吉 著絵図
明351902日本全国巡遊学生遠足修学旅行案内地理歴史研究会 編ガイド
明361903大和巡水木要太郎 著ガイド
明361903奈良名勝誌文進堂 編ガイド
明361903大和名勝藤園主人 述ガイド
明371904京阪名所案内白土幸力 編ガイド
明391906修学旅行紀行文蠖堂居士 編ガイド
大41915近畿大観川田友之 編ガイド
大41915奈良名勝案内圖炭谷傳次郎 編絵図
大81919近畿地方修学旅行の栞武用種吉 編ガイド
大111922近畿古美術案内 : 東京美術学校修学旅行田辺孝次 著東京美術学校々友会ガイド
大121923関西方面修学旅行案内神奈川県師範学校ガイド
大131924近畿地方修学旅行案内京都府立第二高等女学校校友会 編ガイド
大131924京都案内京都市 編ガイド
大141925奈良名勝案内地図大淵善吉絵図
大151926全国名所めぐり小林鶯里 著ガイド
昭51930新撰お伊勢まゐり大和めぐり新井和臣 編ガイド
昭51930日本案内記. 近畿篇 下鉄道省 編ガイド
昭51930奈良名勝案内図駸々堂旅行案内部絵図
昭81933近畿關西旅行案内 : 修學旅行の栞 65版三省堂旅行案内部 編ガイド
昭91934観光地と洋式ホテル鉄道省ガイド
昭111936大和伊勢南紀旅の栞大軌参急旅行会 編ガイド
昭121937関西修学旅行案内東京府立第三中学校学友会 編纂ガイド
昭121937産業と観光 : 新興日本の全貌. 昭和13年日本電報通信社 編ガイド
昭131938大和めぐり日本旅行協会ガイド
昭131938観光ガイド : 名古屋・岐阜・三重・奈良大阪毎日新聞社名古屋総局 編ガイド
昭131938観光の大和奈良縣観光聯合會ガイド
奈良公園を描いた観光ガイド一覧
(所蔵:「国」=国立国会図書館 「奈」=奈良県立図書情報館)

 分析にあたっては、奈良公園を取り上げた前述の文献の内、まず「芝生・芝・草・原」などの単語で文章内検索を実行し、それらが描かれている記述を抜き出し、その前後の文脈に応じて描写のあり方を下記の4段階に分類した。すなわち芝生を、「部分的な風景」として描写するものを描写レベル①、「部分的な魅力」とするものを描写レベル②、「公園全体の風景」とするものを描写レベル③、「公園全体の魅力」とするものを描写レベル④とする。また、比較対象として「森・林・木・樹」という単語でも文章内検索を行い、同様の強調・分類を施した。これによって、明治期まで公園風景の理想としてみなされていた「森林景観」への眼差しが、どのように変化したかも検証する。

文学作品にみる芝生景観

 志賀直哉を筆頭に、奈良公園を訪れその魅力を語った文豪は枚挙にいとまがない。特に奈良公園が有する神社仏閣建築の偉大さと、自然景観の美しさを讃えている点に関しては、いずれの文献にも共通している内容である。では彼らのいう「奈良公園の自然美」とは、具体的にどのような植生を指し示したのであろうか。
 下記の表は、取り上げた16作品にみる、森林景観や芝生景観に対する視線の分析結果をまとめたものである。

和暦西暦タイトル執筆分類森の描写芝の描写
大61917茶話03薄田泣菫随筆
大71918汽車の窓から谷口梨花随筆
大71918「奈良」に遊びて宮本百合子随筆
大71918日本名勝旧蹟産業写真集.
近畿地方之部
西田繁造 編写真集
大81919遊動円木葛西善蔵随筆
大81919茶話05薄田 泣菫随筆
大81919古寺巡礼和辻哲郎随筆
大91920奈良と鹿八田三郎随筆
大121923古美術行脚大和足立源一郎 等著随筆
大141925楢重雑筆小出楢重随筆
昭51930めでたき風景小出楢重随筆
昭61931奈良の櫻志賀直哉随筆
昭131938置土産志賀直哉随筆
昭141939夢殿北原白秋詩集
昭141939旅日記昭和十四年種田 山頭火詩集
昭181943大和路・信濃路堀辰雄随筆
文学における奈良公園の植生描写
※文献の分類に際しては、対象となる芝生や森林に対して、
・描写レベル①:「部分的な風景」として描写するもの
・描写レベル②:「部分的な魅力」として描写するもの
・描写レベル③:「公園全体の風景」として描写するもの
・描写レベル④:「公園全体の魅力」として描写するもの
の4つに振り分けた。①<②≦③<④と高いほど、その風景が「公園らしさ」として描かれているものと解釈できる。

a)1910年代

 まず1910年代後半に奈良公園を描いた作品を見ていこう。青空文庫において奈良公園に触れた最も古い文献は、薄田 泣菫[8]薄田泣菫(すすきだきゅうきん):1877-1945(68歳没)。詩人・随筆家で、代表作に『暮笛集ぼてきしゅう』『白羊宮はくようきゅう』等がある。の「茶話03」における「公園は奈良式が一番善いやうだ。近頃ちよいゝ公園に銅像などを建てるが、あんな人工的なものを細々建たて列べるよりも、いろんな樹木を植ゑて森林の感じでも出すやうに心掛けたいものだ。」が挙げられる。銅像なを並べた人工的な公園よりも、樹木が並ぶ自然的な公園を評価しており、その代表として奈良公園を上げていることから、森林を奈良公園の重要な風景として認識していることがわかる(描写レベル④)。同著者は2年後の「茶話05」において、「(奈良公園を散歩していると)、いつの間にか黛ずんだ春日のもりにのつそりと大きな月があがつてゐた。 」「三笠山は何か後暗い事でもしたやうに黛ずんだ春日の杜影もりかげに円い頭をすぼめて引つ込んでゐた。」と思いを馳せている。春日大社の境内林を、月や三笠山と並べて描写しているが、こちらは森林を奈良公園の魅力と結びつけているとは言い難いだろう(描写レベル①)。
 大正7(1918)年には、谷口梨花[9]谷口梨花(たにぐちりか)。かつて鉄道院に所属し、1911年に発行された『鉄道旅行案内』の執筆・編集に携わる。が『汽車の窓から』にて「市の東部には興福寺、春日神社、東大寺があつて、殆ど市の四分の一を占めて、今奈良公園としょうし、千年の杉と、柔らかい芝生と、匂ふ藤と遊ぶしかとが美しう此間を彩り、……」と書き記しており、奈良公園の森林と芝生を藤の花と並ぶ自然景観として列記している(描写レベル④)。特に春日大社境内に対しては「一ノ鳥居を潛ると春日神社の境内で、春日野と云ひ、左右共に杉檜などの大木で、奥へ進む程いよゝ多くなる、右は一帶の岡で浅茅ヶ原あさじがはら、片岡、雪消澤、躑躅つつじ畑と續いて居る。其杉の大木の生い茂つた下の芝生の上や小流れの畔、或は樹陰に或は路傍に、いはゆる春日の神鹿しんろくが三々五々群をなし隊を作りて遊んで居る。」と記述しており、こうした風景が特に春日野の光景とみなされていることが窺える。
 同年には宮本百合子[10]宮本百合子(みやもとゆりこ):1899-1951年(51歳没)。小説家・評論家・左翼運動家で、代表作に『貧しき人々の群』など。が『「奈良」に遊びて』において、春日大社の森林に対し「大きな杉並木があります。成長しきったその老杉に対すると何となく総てを知りぬいてる古老にでも逢ったように感じられて、ツイ言葉でも懸けて見たくなるのです。」と述懐している。また東大寺境内周辺の芝生を「(転害門てがいもんから)そこを進みますと、道の両側の芝生が春の光を浴びてまだらに青ばんで来ているではありませんか。凝っと見ていると、翠の若草が、黄色い去年の草を蔽い隠してしまうかと疑われる程でした。私が若しも歌人でしたら、そこで幾首かは詠めたでしょう! 」と魅力的なものとして描いている。但し何れも、春日大社境内や東大寺境内の景色と結びつけた記述であり、公園全体のイメージと結びついているとは断言し難い(どちらも描写レベル②)。
 つづく大正8年には、多くの文化人にならの魅力を伝えたとされる和辻哲郎[11]和辻哲郎(わつじてつろう):1889-1960(71歳没)。哲学者、倫理学者、文化史家、日本思想史家で、代表作に『倫理学』『風土』など。の「古寺巡礼」が執筆された。そこには以下のとおり、奈良公園の森林や芝生を印象的に描いている(描写レベル④)。『帰りは春日公園の中の寂しい道を通った。この古い森林はいつ見てもすばらしい。今はちょうど若葉が美しく出そろって、その間に太古以来の太い杉や檜の直立しているのが目立つ。』『N君を訪ねるつもりでひとりブラブラと公園のなかを歩いて行ったが、あの広い芝生の上には、人も見えず鹿も見えず、ただ白々と月の光のみが輝いていた。』
 一方「五月初旬の奈良公園は、すてきなものであった。初めての私には、日本一とも世界一とも感歎したいくらいであった。」という書き出しで始まる葛西善蔵[12]葛西善蔵(かさいぜんぞう):1887-1928(41歳没)。小説家で、代表作に『子をつれて』など。の短編私小説「遊動円木」では、「大仏通りの方でF氏と別れて、しめっぽい五月の闇の中を、三人は柔かい芝生を踏みながら帰ってきた。」と回想しており、公園の風景を描くささやかな小道具として芝生が用いられている。(描写レベル①)。
 以上6作品に加えて、奈良公園について言及した出版物の1つとして、西田繁造による写真集『日本名勝旧蹟産業写真集. 近畿地方之部』も存在するが、こちらは社寺や公園施設を主な撮影対象としており、自然景観に対する言及は特に見られなかった。

b)1920年代

 1920年に出版された『奈良と鹿』は、動物学者の八田三郎[13]八田 三郎(はった さぶろう)1865-1935(70歳没)。日本の動物学者。動物地理学上の北海道の位置を示す「八田線」で有名である。による奈良公園に関する随筆である。 本書では全国の鹿にまつわる風景の中でも、奈良公園の芝生を「廣廣ひろびろとした平野一帯に秋萩あきはぎを散らし、彼方にも此方にも鹿の子が踊り歩き、まぐさひつヽあるのがありゝと見ゆる心地がする。」、「鹿と野と一幅の畫景がけいを織り出すのは、けだし春日でなくてはあり得なからう。じつに奇抜な景色である。じつに雄大な幅である。」と評しており、その平原が奈良公園の地の特色であるとしている(描写レベル④)。
 高畑に起居した山岳画家である足立源一郎[14]足立 源一郎(あだち … Continue readingは、1923年の『古美術行脚大和』の「奈良公園附近」において「興福寺から博物館へは三丁、東大寺へは更に六丁で、皆な奈良公園の綠蔭りょくえいに鹿群の遊行する芝生の間の大道を行くのである。」と芝生を書き記している(描写レベル③)。同様に森林については春日大社の境内を指して「十丈の老杉に巻き登つた藤の花が山風にゆれ、綠深い樹蔭には馬酔木あせびの氣の花がほのかに咲き、苔むした三千の古い石燈籠がそれゞの時代の趣を表はしてゐる。」と描いており、春日大社と老樹が織りなす風景イメージを強調している(描写レベル②)。
 なお、1925年には『楢重雑筆』を、1930年には『めでたき風景』を、それぞれ執筆している洋画家の小出楢重[15]小出 楢重(こいで ならしげ):1887-1931(44歳没)。洋画家で、代表作に「Nの家族」「横たわる裸身」など。も、各随筆中に浅茅ヶ原あさじがはらや自宅前の風景を描いているが、特に植生に注目するものは見受けられなかった。

c)1930年代

 奈良公園を取り上げた1930年代の作品の中で、とりわけ奈良公園を高く評価するのが、志賀直哉による「奈良の櫻(1931)」「置土産(1938)」の2作品である。既設のとおり、前者では公園の芝生を「(奈良公園の)藤の大木は一番誇っていいのかもしれない。それから芝生、こんなにいい自然の芝生も珍しい。」と奈良公園の貴重な風景として紹介しており、後者においても「ある広ささへあればどこにでも作れる公園と奈良のやうな千何百年の歴史を持ち、さらにそれ以前からの原始林をひかえてゐる自然の庭のやうな公園は一緒にならない。」として、奈良公園の森林を東京や大阪の公園との大きな違いとして扱っている(描写レベル④)。
 志賀直哉が奈良を発った翌年の昭和14(1939)年には北原白秋[16]北原 白秋(きたはら はくしゅう):1885 – 1942(57歳没)。日本の詩人、童謡作家で、代表作に『邪宗門』など。が「夢殿」にて、春日野の杉並木と冬の芝生を「夕日洩る木の間に見えてかぼそきは連なき鹿の影ありくなり 鹿のこゑまぢかに聴けば杉の間の一木の黄葉下明るなり 群の鹿とよみ駈け来る日の暮をひたととどまり冬はかそけさ 春日野の夕日ごもりとなりにけりさむざむと立つ鹿の毛のかそ」「鹿のかげほそりと駈けて通りけりかがやき薄き冬の日の芝 冬薄日うらなく遊ぶ鹿の子のうしろきつつ我も寒かり」という具合に、戯れる鹿とともに詠んでいる(描写レベル②)。
 その他、1939年には種田山頭火[17]種田 山頭火(たねだ さんとうか):1882-1940(58歳没)。自由律俳句の俳人で、代表作に「分け入つても分け入つても青い山」など。が『旅日記 昭和十四年』にて、1943年には堀辰雄[18]堀 辰雄(ほり たつお):1904年-1953年(44歳没)。小説家で、代表作に『風立ちぬ』『菜穂子』など。が『大和路・信濃路』にて、それぞれ奈良公園での紀行を残している。

 
観光ガイドにみる芝生景観変化

 続いて、奈良公園をとりあげた観光ガイド・案内図を手がかりに、公園の植生景観に対する変化を分析する。

和暦西暦タイトル発行・執筆分類森の描写芝の描写
明321899奈良名勝便覧筒井梅吉 著ガイド
明331900奈良市實測全図筒井梅吉 著絵図
明351902日本全国巡遊学生遠足修学旅行案内地理歴史研究会 編ガイド
明361903大和巡水木要太郎 著ガイド
明361903奈良名勝誌文進堂 編ガイド
明361903大和名勝藤園主人 述ガイド
明371904京阪名所案内白土幸力 編ガイド
明391906修学旅行紀行文蠖堂居士 編ガイド
大41915近畿大観川田友之 編ガイド
大41915奈良名勝案内圖炭谷傳次郎 編絵図
大81919近畿地方修学旅行の栞武用種吉 編ガイド
大111922近畿古美術案内 : 東京美術学校修学旅行田辺孝次 著東京美術学校々友会ガイド
大121923関西方面修学旅行案内神奈川県師範学校ガイド
大131924近畿地方修学旅行案内京都府立第二高等女学校校友会 編ガイド
大131924京都案内京都市 編ガイド
大141925奈良名勝案内地図大淵善吉絵図
大151926全国名所めぐり小林鶯里 著ガイド
昭51930新撰お伊勢まゐり大和めぐり新井和臣 編ガイド
昭51930日本案内記. 近畿篇 下鉄道省 編ガイド
昭51930奈良名勝案内図駸々堂旅行案内部絵図
昭81933近畿關西旅行案内 : 修學旅行の栞 65版三省堂旅行案内部 編ガイド
昭91934観光地と洋式ホテル鉄道省ガイド
昭111936大和伊勢南紀旅の栞大軌参急旅行会 編ガイド
昭121937関西修学旅行案内東京府立第三中学校学友会 編纂ガイド
昭121937産業と観光 : 新興日本の全貌. 昭和13年日本電報通信社 編ガイド
昭131938大和めぐり日本旅行協会ガイド
昭131938観光ガイド : 名古屋・岐阜・三重・奈良大阪毎日新聞社名古屋総局 編ガイド
昭131938観光の大和奈良縣観光聯合會ガイド
奈良公園を描いた観光ガイド一覧
(所蔵:「国」=国立国会図書館 「奈」=奈良県立図書情報館)
※文献の分類に際しては、対象となる芝生や森林に対して、
・描写レベル①:「部分的な風景」として描写するもの
・描写レベル②:「部分的な魅力」として描写するもの
・描写レベル③:「公園全体の風景」として描写するもの
・描写レベル④:「公園全体の魅力」として描写するもの
の4つに振り分けた。①<②≦③<④と高いほど、その風景が「公園らしさ」として描かれているものと解釈できる。

a)1900年代

 森林美への情熱が未だ冷めぬ明治末、その憧憬は奈良公園を描く観光案内にも依然色濃く反映されている。この時代の奈良公園林を取り上げた観光ガイドとしては、筒井梅吉の『奈良市實測全図』にて春日大社周辺が樹木を意味する記号で蔽われていた(描写レベル③)例のほか、水木要太郎の『大和巡(1903)』や文進堂による『奈良名勝誌(1903)』、そして白土幸力の作成した『京阪名所案内(1904)』などが発見できた。
 『大和巡』では春日大社参道を「一歩進むに随ひて老杉枝を交へ群鹿友を呼び境愈幽に景愈妙なり。」と、また春日野を「春日野に千年の老杉根を交え神鹿優々として遊べるが如きは一種言ふべからざる神韻を認むべく」として、樹齢深い杉の木々を評している(描写レベル②)。
 春日野の樹々は、『奈良名勝誌』においても「京極大路以東は凡て春日野と稱せしが如し樹木鬱蒼として神鹿多く徘徊す藤花の頃、樹間にかゝる古藤紫雲を靡かせ空に聳える靑綠と相映じて眺め最も好く、冬時薄雪林間を覆ふの時も亦一層の興趣あり」とあり、鹿・藤・雪といった他の景観との調和を語る(描写レベル②)。
 『京阪名所案内』でも、土地台帳では芝地として描かれていた浅茅ヶ原の見どころを、「大鳥居の附近老松蒼然たる邉をいふ、一面池に臨みたるあたり十余の小亭あり、近来多くの梅樹を栽ゆ、花期の眺めに宜し、」と松と梅にのみ焦点を当てており、芝生については何の言及もない。加えて春日大社境内林を「古松老杉千年の樹」と描いていることから、ここでも奈良公園は杉や松で蔽われた公園として扱われていることが読み取れる(描写レベル④)。
 唯一芝生について筆をとった例は、文進堂による『奈良名勝誌(1903)』の「◯雪消澤 只一小池を存するのみ崇徳天皇御製「春くれば雪消の澤に袖たれてまたうら若き若菜をぞつむ」此の地の御詠にはあらざるべけれど綠草敷きつめたる邉、神鹿逍遥し遥かあなたに高窓山等遠山を望む好畫題なり」のわずか一文に留まった(描写レベル①)。

b)1910年代

 1910年代の観光ガイドとしては、川田友之編の『近畿大観(1915)』、炭谷傳次郎編の『奈良名勝案内圖(1915)』、そして武用種吉 編による『近畿地方修学旅行の栞(1919)』が確認できた。
 『近畿大観』では、「天下の公園」と第する項目において、「奈良に入りて先づ目を驚かすは幾十の堂塔鬱蒼たる碧樹を縫うて高く聳ゆるの一次で、次は何者に觸れても古き匂ひを帶びて云ひ知れずコトの氣分を味ひ得ることである。」と述べ、樹林の間に堂塔が並ぶ奈良公園の風景を驚くべきものとして讃えている(描写レベル④)。同書には芝生についても「是より古への飛火野の地を過ぐれば氷室神社あり、古杉老檜猶暗き間を過ぐれば、春日神の使はしめと稱せらるヽ神鹿は三々五々隊を作り、或は芝生の上に臥し或は細流のせヽらぎに水のむ無邪氣は云ふ許りなく愛らし。」と記載があるものの、やはり森林を描く筆致に比べれば精彩を欠いている(描写レベル①)。
 1919年の『近畿地方修学旅行の栞』においても「市の東部には春日神社、東大寺、興福寺等をはじめ數多き神社佛閣、奈良公園の樹間に或は聳え、或は隠れ、見るからに古都の氣分を湧かしめ、旅人をして陶然たらしむるものあり。」と語られており、森林が古都の歴史的厚みを引き立たせるものとして扱われている(描写レベル④)。
 一方『奈良名勝案内圖』では、「(奈良駅から)直ぐ東へ登ると諸役所、學校で、皆日本造。やがて右手にバット廣い芝生が即奈良公園。」とあり、公園景観の目印として興福寺境内の芝生が取り上げられている。また、続く「芝生は踏んでも寝ころんでも差し支えありません。」という一文は、前節の県会議事録におけるやり取りを彷彿とさせるだろう(描写レベル③)。

c)1920年代

 1920年代に入ると、人々が奈良公園に対して抱いていた森林美の幻想が崩れ始める。というのも、「暗く厳かな森林」という風景のイメージが、奈良公園全体を指すものから春日大社の境内や春日山を指すものへと、その対象が徐々に限定され始めるのである。
 例えば神奈川県師範学校の『関西方面修学旅行案内(1923)』では、奈良公園の森林を「杉樹の鬱蒼たる間春日神社の詞殿を認むるべし」と、春日大社の社殿と関連付けて紹介しており(描写レベル②)、代わりに奈良公園の紹介として「而して、その路の窮るところ、すなわち奈良公園にして大鹿小鹿の靑草の間に逍遥するを見るべし。」と、芝草を取り上げている(描写レベル③)。
 続く1924年には、京都府立第二高等女学校校友会編の『近畿地方修学旅行案内』、及び京都市の『京都案内』が登場する。前者では、「(春日大社境内は)老檜老杉、参道の左右に並び立ち、神鹿は三々五々群をなし賽人の袖にまつはつて餌を求める」と境内林にふれるにとどまり(描写レベル①)、後者でも「尚ほ進みて一華表を潜れば亭々たる老松賽路の上に數枝をなぐるを見る、この松ヶ枝の下は春日御祭の際、薪能といへる古式の能樂を行ふ所にて、この邉より道の両側には老杉矗々として天を蔽ふ」として、やはり鬱蒼とした樹々を春日大社の風景として描いている。
 また、小林鶯里の『全国名所めぐり(1926)』でも、春日野の自然景観について「春日野の平蕪草色は煙るやうである。路の右傍は浅茅ヶ原で、梅樹が多く、雪消澤は近くにある。いはゆる神鹿は詣人の奇とする處で、或は芝生の上、或は小流の畔、或は路傍に或は樹陰に、三々群れをなし伍々隊を作つて、人の袂をひいて食を乞ふさま愛らしい。」と寧ろ芝生を魅力的に描いており(描写レベル②)、森林についてはほとんど触れていないことがわかる(描写レベル①)。

d)1930年代

 まず森林に対する描写を見てみれば、鉄道省編の『日本案内記. 近畿篇 下(1930)』における「千年の神木繁る中」という表現も、日本電報通信社 編の『産業と観光 : 新興日本の全貌. 昭和13年(1937)』における「鬱蒼たる千古の老杉」という定番の一文も、大阪毎日新聞社名古屋総局編の『観光ガイド : 名古屋・岐阜・三重・奈良(1938)』の「天を摩する老杉」というフレーズも、いつしかすべて春日山と春日大社を修飾する言葉としてその対象を狭めている(描写レベル②)。
 翻って芝生に注目してみると、まず新井和臣編『新撰お伊勢まゐり大和めぐり(1930)』における「公園内の杉の頂部が枯れて劔の如く尖つてゐる特殊な姿、それにからまつて天空に高く咲き誇る藤の花、浅茅原から雪消澤にかけて綠布をしきつめたやうた廣い芝生、そのところゞに點在する櫟の老木、更に二の鳥居に到る石燈籠の間に群生する馬酔木の白い花、それが春先に房状に咲くときは雪と見紛ふばかり」という風景の叙述では,藤の紫・芝生の緑・馬酔木の白など公園の植生が色とりどりに描かれており、そこには神の森としての威厳も貫禄も感じられない(描写レベル②)。
 さらに続く大軌参急旅行会編纂の『大和伊勢南紀旅の栞(1936)』では、奈良公園全体に対して「自然美の若草山や、春日連山の曲線を背景に、奈良公園の蒼芝には、名物の鹿が遊んでいる。誰しもの目に映ずる明るい風情である。 」と芝生の明るさを園内の普遍的な情景として取り上げている(描写④)。春日野の芝生に対しても「春日山の森厳な山容林相を背景に、麓に展がる春日野は木々を通して蒼芝が夢のやうに煙つて、奈良公園の近代的な装に、四季風色の粋を聚め、……」と春日山の厳かな森と対比的に描写しており、浅茅ヶ原から飛火野にかけての芝生も「大鳥居を潜ると、参道の馬場がづっと續いて、大宮までは一粁ニ、浅茅ヶ原から雪消澤へかけて綠の毛氈を敷き詰めた大原野は低いうねりを見せて、櫟や杉の老木が、ところゞに木影をつくつて、春にもなれば、鈴蘭に似た馬酔木の白い華が咲いて、樹々には春日藤がからまつて、紫雲の刺繍を施してゐる。」と華やかな風景として紹介している。
 あるいは大阪毎日新聞社名古屋総局編『観光ガイド : 名古屋・岐阜・三重・奈良』でもことは同様である。「春日山の森厳な山容林相を背景に麓に展がる春日野は木々を通して蒼芝が夢のやうに煙つて名物の鹿がのんびり遊んでゐる。」、「旅客が單に公園と稱してゐる御料地、浅茅ヶ原、飛火野の一帯は滑らかな芝生と天を摩する老杉の大自然美に酔ひ悠々と群れ遊ぶ神鹿に戯れながら散策すれば、どんな憂鬱なときでも忽ち晴れゞと陽氣になるといふ他に味へない特異性を持つてゐる。」という文面からは、春日山や春日大社の暗々とした森と好対照の廣い芝地が、のどかで明るい奈良公園を演出する舞台装置として機能していることが分かるだろう(描写レベル④)。
 極めつけは1938年から1939年にかけて作成された、奈良県観光総合会による機関雑誌『観光の大和』収録の下記の記事である。

奈良雑記〈村田泥庵〉

一、公園の芝と鹿
 奈良に住んで三十年、その間ちつとも飽かないのは、廣々ひろびろとした公園の芝生である、あおくても、枯れても、踏んでも寝轉ねころんでも、人の心を和やかにする、こころみて漢詩家福田靜處ふくだせいしょ翁(俳名把栗はりつ)と遊ぶ、翁は興福寺の芝を一望して王氣滿つといつて喜んだ、また畫家しょか富田溪仙とみたけいせん君は寫生しゃせいの筆をなげうち、どツかと胡座をかいて思索に耽つてゐた、私はいつもの樹下の日溜りに寝そべつた群鹿が、皆一様に眼を細うして口をもぐゝさせてゐるのをぼんやりと眺めてゐた、かように一瞬時にもせよ塵外の人たるを得せしめるのは全く芝生のお蔭である。春秋に殺到する多くの勸光客かんこうきゃくが異口同音に『奈良はいゝなア』と賛嘆するのも、亦この芝生あるがためである。
 奈良の芝はじつに公園の詩であり歌であり句である、には單純たんじゅん過ぎて一寸ちょっとその氣分が出し憎いか、あんまりいゝ芝の畫を見ないのである、千年斧鉞ふえつを入れない春日を背景に、可愛い鹿を点綴したら、平和を象徴する立派なポーズとなつて畫にも寫眞しゃしんにもよからう?
 私は雨の芝が好きである、春秋の細雨に、冬の時雨に、只ひとりあてもなくさまよふと足許のうるさゝなど少しも氣にはならぬ、ママ鹿も雌鹿も仔鹿も皆雨に濡れて、シヨンボリ佇んでゐる光景がまたなく嬉しい。

奈良縣観光聯合會『観光の大和』1938

 重ねた巻号はわずかに5冊を数える程度の短命な雑誌であった『観光の大和』だが、奈良公園の芝生を中心テーマとして綴られたこのエッセイは、芝生景観が奈良公園を代表する風景として「ブランド化」していると結論づけるに、充分な記述と言えるだろう(描写レベル④)。

結論

奈良公園の芝生地は、すでに1900年代には行政からも民間事業者からも認知されており、1930年代を迎える頃には神寂びた老樹林に代わる特徴的な景観として、各種媒体に繁く取り沙汰され始めた。行政としても芝生の保護や拡大にはやぶさかでなかったものの、芝生空間の積極的な開発にはいま一歩至ることができず、そのまま太平洋戦争を迎えることとなる。
 時を前後しながら複数の媒体に渡って芝生景観描写を分析してきたが、あらためて一つの時系列に乗せて俯瞰してみれば、作家や観光産業従事者による芝生景観に対する言及や評価が、奈良県による芝生開発に先んじて行われていることに気がつくであろう。公園の開発主体である奈良県にとっての芝生とは、確かに奈良公園施設の空白地・残余地を彩る好ましい植栽であったが、それはあくまで社寺や森林、あるいは近代施設のすきまを埋める傍役としての評価であり、奈良公園の主役を張るだけの景観要素としては扱われていない。奈良公園における芝生景観のブランディングとは、特定の造園家や都市計画家の先導によって実現した景観イメージなのではなく、むしろ訪問者や奈良町民によって徐々に発見された風景イメージに戦後の公園行政が便乗する形で実現した、というのがその実態なのであった。

References

References
1 青木 陽二「明治以降の著書に見る風景理解の変遷に関する研究」『ランドスケープ研究』2000、 64(5)、pp. 469-474。
2 池田朋子、大貝彰「1970~94年の芥川受賞作品群にみる自然景観イメージとその変遷」『日本建築学会計画系論文集』1997、62(494)、pp.161-168。
3 西田正憲「近世の紀行文等にみる山岳表象の特質」『ランドスケープ研究』2005、68(5)、pp.407-410。
4 日高 圭一郎 ほか 「観光画像情報からみた観光資源に関する一考察 : 北九州市を事例として」 『日本建築学会計画系論文集』1998、63(512)、pp.213-220。
5 矢部恒彦「若年女性対象の量販一般雑誌に掲載された都市の場景に関する研究」『日本建築学会計画系論文集』、1994、59(463)、pp.139-148。
6 北原理雄「尾張名所図会に描かれた名古屋都市景観の研究」『日本建築学会学術講演梗概集』 1982、 p.1813-1814。
7 神谷 文子、浦山 益郎、北原 理雄「主題要素の写され方からみた都市景観写真の構図に関する研究 : 欧米10都市の観光ガイドブックを事例として」『日本建築学会計画景論文集』2000、65(528)、pp.179-186。
8 薄田泣菫(すすきだきゅうきん):1877-1945(68歳没)。詩人・随筆家で、代表作に『暮笛集ぼてきしゅう』『白羊宮はくようきゅう』等がある。
9 谷口梨花(たにぐちりか)。かつて鉄道院に所属し、1911年に発行された『鉄道旅行案内』の執筆・編集に携わる。
10 宮本百合子(みやもとゆりこ):1899-1951年(51歳没)。小説家・評論家・左翼運動家で、代表作に『貧しき人々の群』など。
11 和辻哲郎(わつじてつろう):1889-1960(71歳没)。哲学者、倫理学者、文化史家、日本思想史家で、代表作に『倫理学』『風土』など。
12 葛西善蔵(かさいぜんぞう):1887-1928(41歳没)。小説家で、代表作に『子をつれて』など。
13 八田 三郎(はった さぶろう)1865-1935(70歳没)。日本の動物学者。動物地理学上の北海道の位置を示す「八田線」で有名である。
14 足立 源一郎(あだち げんいちろう):1889-1973(84歳没)。画家、作家、登山家で、代表作に『滝谷ドームの北壁』『北穂高岳南峰きたほだかたけなんぽう』など。
15 小出 楢重(こいで ならしげ):1887-1931(44歳没)。洋画家で、代表作に「Nの家族」「横たわる裸身」など。
16 北原 白秋(きたはら はくしゅう):1885 – 1942(57歳没)。日本の詩人、童謡作家で、代表作に『邪宗門』など。
17 種田 山頭火(たねだ さんとうか):1882-1940(58歳没)。自由律俳句の俳人で、代表作に「分け入つても分け入つても青い山」など。
18 堀 辰雄(ほり たつお):1904年-1953年(44歳没)。小説家で、代表作に『風立ちぬ』『菜穂子』など。