帝国奈良博物館本館(現:奈良国立博物館なら仏像館)は、宮廷建築家片山東熊によって設計された本格派の近代西洋建築であるが、奈良県の建築物の中では今一つ評価が低い。どの観光ガイドを紐解いてみても、帝国なら博物館本館は
・「奈良の景観にはそぐわないと不評だった」
・「奈良ホテルなどの建築が和風になったのは、この博物館による景観論争がきっかけ」
と記されており、もっぱら否定的な文脈で語られることが多い。
あるいは近代建築史の教科書においてさえ、「建築家片山東熊の練習作」といった未熟作品扱いが多い。
この記事では、建物自体の特徴を解説するとともに、この「帝国奈良博物館景観論争」について疑問を投げかける。実はこの説には具体的な根拠が明示されておらず、何時ごろから定着したものであるかもはっきりしていないのだ。
目次
基礎データ
所在地 | 奈良市登大路市 |
設計者 | 片山東熊 |
造園 | 小沢圭次郎 |
構造 | 煉瓦造平屋建て |
竣工年 | 明治27年(1894) |
利用状況 | 展示 |
見学条件 | 要施設利用 |
施設利用案内
展示
- 開館時間:午前10時30分から午後5時まで
- 休館日:毎週月曜日(休日の場合はその翌日。連休の場合は終了後の翌日。)および1月1日。
建築解説
成立背景
土方宮内大臣より、東京・京都・奈良の地に帝国博物館を設置する「宮内省達第六号」が発令。
これに伴い、興福寺・東大寺が所蔵していた文化財などを収集・保護する施設として「帝国奈良博物館」の設置が進められる。
博物館設置を祝す地元住民の手によって、旧大乗院門跡に残存した「含翠亭(現:八窓庵)」が寄付される。
含翠亭も現在の敷地に移築される。
同時に、受託規則や出品規則が制定される。
これは本建築が正倉院の宝物を数多く保管している事に由来する。
「国立博物館奈良分館」に改称。
栗生明+栗生総合計画事務所により、床、壁、天井、展示台・展示ケースの変更、照明・空調等設備の刷新。
全体像
- 興福寺伽藍東側、かつての一乗院下屋敷に該当する一角に立地する。
- 当初は田畑民家が広がっていた敷地を、明治奈良県政府が購入して成立した(関連記事:明治土地台帳にみる、奈良公園の土地利用)。
- 設計は宮内省内匠寮技師であった片山東熊によるもので、県下最初期の本格的な西洋建築となった。
- 東西方向の軸を持つ中央棟と、そこから南北に飛び出す十字の平面をもつ。
- 中央棟には大規模な「彫刻室(大ホール)」を配置し、側面採光による天窓を設ける。
- 南北棟は各六室の展示室で構成され、「彫刻室」「絵画室」「古器物室」などに分類される。南側の棟からは、増築された「青銅器館」に連結する。
- 本来西側を正面とするが、現在は新館が立地する東側を玄関とし、かつての玄関部は「体験コーナー」として利用される。
立面
- 外壁はベージュ調の石張りに、花崗岩の基部と凝灰岩の角柱を持つ、ネオルネサンス様式の重厚な外観を持つ。
- 西側正面玄関は、櫛形ペディメントとそれをささえる4本のコリント式列柱で装飾される。
- 入り口の両脇にはアーチ型のエディキュラが設けられるが、ここには建設当初よりとくに内部に彫刻などは設置されていない。
- 柱と柱の間には円形・矩形のメダリオンがいくつも並ぶ。その装飾はネオゴシック的な華やかなものであるが、内部はエディキュラ同様いずれも空白である。
- 小屋組みは木造。中央棟頂部が銅板葺であるのを除き、大部分が桟瓦葺。
建築の評価と影響
建築の評価
奈良の近代建築を語る際、この奈良帝国博物館はしばし古都奈良の景観を破壊した悪役として描かれる。
第一に、規模の小ささが指摘される。ほぼ同時期に片山東熊によって建設された京都帝国博物館が2,896.5㎡[1]文化遺産オンライン「旧帝国京都博物館本館」程度であるのに対し、奈良帝国博物館の面積は1,663.5㎡[2]文化遺産オンライン「旧帝国奈良博物館本館」と半分程度だ。
第二に、西洋建築としての未熟さが目立つ。京都帝国博物館では、技芸天と毘首羯磨をモチーフとした彫刻が掘られたペディメント、そして天井まで漆喰で塗り込めた白亜の中央ホールなどが、その設計技術の高さや空間の魅力として注目されるが、一方奈良帝国博物館は、空白のメダリオンに質素な内装と、未発達な部分印象が否めない。
加えて、奈良という土地柄との相性の悪さがその不遇に拍車をかけている。帝国奈良博物館が位置するのは、東大寺、興福寺、春日大社など伝統的な社寺を抱える奈良公園である。正倉院をはじめとする古美術の保存が目的である以上その立地には何の問題もないが、だとすればやはりその豪奢で西洋風な外観は現代人の目から見ても違和感を拭えない。
例えば藤森照信の『日本の近代建築(下)-大正・昭和編』[3]藤森照信『日本の近代建築(下)-大正・昭和編』岩波新書、1993では、ほぼ同時代に設計された木造和風建築である「旧奈良県庁舎」と比較する形で、
設計者の長野が(奈良県庁舎を設計するにあたって)、洋風を旨とする県庁舎に和風を取り込んだのは、前年に奈良公園の中に完成した片山東熊の帝室博物館が古都の景観を乱したという批判が県議会に強かったからだが……
藤森照信『日本の近代建築(下)-大正・昭和編』岩波新書、1993、p.16。カッコ内及び太字強調は本ブログ筆者による。
と本建築を紹介しており、奈良帝国博物館が一種の「嫌われ者」として描かれている。
或いは、奈良文化財研究所の『奈良県の近代和風建築 : 奈良県近代和風建築総合調査報告書』[4]国立文化財機構奈良文化財研究所 編『奈良県の近代和風建築 : 奈良県近代和風建築総合調査報告書』奈良県教育委員会、2011、p.171。においても本建築は、
奈良県近代建築における和風偏重の要因の一つが、洋風に建てられた帝国奈良博物館にある。(中略)もともと興福寺や春日大社の敷地であり、社寺建築や伝統的町並みに囲まれる奈良公園であるから、この純洋風建築は一般に好評でなかった。
国立文化財機構奈良文化財研究所 編『奈良県の近代和風建築 : 奈良県近代和風建築総合調査報告書』奈良県教育委員会、2011、p.171。太字強調は本ブログ筆者による。
と記されており、その西洋風の外観が町民に不評であったことが自明のこととして記されている。
このような、「奈良帝国博物館の壮麗な外観は奈良県民から評判が悪く、それゆえ県下の近代建築は和風が主流となった」という『奈良帝国博物館不評論』は、人口に膾炙した定説として受け入れられているようだ。
帝国奈良博物館は本当に「批判」されたのか?
しかし管見の限り、こうした『奈良帝国博物館不評説』の根拠・出典はいずれも不確かなものや誤解を含むものが多く、またその初出・提唱者も確認できていない。以下、その詳細を検証してみよう[5]以下の考察は、清瀬みさを「旧奈良県庁舎建設と古都のゲニウス・ロキ : … Continue reading。
まず、『奈良帝国博物館不評論』の根拠として紹介される資料は、主に下記の3点が挙げられる。
- 明治25年の「奈良公園地内取締規則(県令第百十三号)」
- 明治25年から明治27年にかけての『奈良県臨時議会議事録』における各議員の発言
- 明治29年の「新築奈良県庁図面説明」における、長野宇平治による記述
以下順番に考察していこう。
1.奈良公園地内取締規則(県令第百十三号)の検証
第一に奈良帝国博物館の不評説の根拠とされているのが、この「奈良公園地内取締規則(県令第百十三号)」[6]奈良県立図書情報館所蔵「奈良県令第113号(奈良公園地内取締規則)」『奈良県公文録 廿五年県令』1892。である。その内容は以下の通り。
奈良公園地内取締規則
第二条
公園地内ノ土地ヲ借用セント欲スルモノハ第一号書式ニ拠リ郡役所ヲ経テ当庁へ願出ヘシ、(中略)
但、家屋ヲ建設セント欲スルモノハ其築造ノ仕様等詳細ノ図面ヲ添付スヘシ第四条
奈良県立図書情報館所蔵「奈良県令第113号(奈良公園地内取締規則)」『奈良県公文録 廿五年県令』1892。太字強調は当ブログ筆者による。
公園地内ノ建家ハ清潔ニシテ風致ヲ損セザルヲ旨トシ、建築落成ノ上ハ当庁へ届け出検閲ヲ受クベシ
なるほど、たしかに当時の奈良公園は敷地内に建設される建物を風致上の視点から厳しく管理しており、その建設には図面の提出や審査が必要であった。当時の奈良公園には、奈良県行政の意に沿わない建築が存在したのは事実であろう。
しかし、この管理規則が制定されたのは明治25年であり、奈良帝国博物館の竣工した明治27年の2年前であるという点には注意が必要である。すなわち、この規則に描かれている「風致」とは、まだ奈良帝国博物館の西洋的外観がその全貌を現す以前の風景であると見るべきである。
では、管理規則が指し示す「風致」とは、具体的にどのような光景を指すものであったのだろうか?ここで手がかりとしたいのが、当時の行政文書に記された、当時の奈良公園の風景である。実は下記の記事で明らかにした通り、明治初期から中期の奈良公園敷地には、民間人の田畑や家屋が多数点在していた。
こうした不当に公園敷地を占拠する人々には、奈良県行政も手を焼いており、その排除と風致の整備が焦眉の課題となっていた。下記は明治21年の興福寺境内の様子である。
(園内に)常住者ヲ許セシ以来、風光大ニ損シ或ハ襤褸ノ澣濯セルモノヲ曝ラシ、或ハ建物ノ周囲ニ種々見苦敷物品ヲ露積セルカ如キアリテ、来遊者ヲシテ其目ヲ蔽ハシムルアリ、又ハ汚水ノ浸潤セルアリ、殊ニ甚タシキハ厠圊ノ構造其宜シキヲ得サルヲ以テ、屎尿ノ漏洩シテ地上ヲ汚穢ナラシメ、悪臭ノ鼻ヲ撲ツアリテ、
奈良県立図書情報館所蔵『明治廿一年 公園名勝地書類』1888
こうした描写から考えるに,「奈良公園地内取締規則」における各種の「風致」にまつわる規制や手続きは、奈良帝国博物館の西洋風な外観を排除するためのものというよりも、こうした「常住者」による荒屋・洗濯物・廃棄物の排除が目的であると判断するのが妥当であろう。
2.『奈良県臨時議会議事録』における各議員の発言
明治25年から明治27年にかけて、奈良県県議会では県庁舎の建て替えにまつわる議論が盛んであった。そうした議論の中には、県下における洋風建築を引き合いに出し、新しい庁舎建築が洋風の外観になることを懸念する発言が見受けられる。
山崎議員
奈良県立図書情報館所蔵『明治二十五年九月臨時県議会』p.38。太字強調は当ブログ筆者による。
春日公園ノ傍ニ菊水ナル一楼ヲ建築セシカ、這ハ其風景ヲ害スル甚タシトテ、外国人抔ハ大ニ笑ヒタル趣キナリ、尤モ是等ハ只其一例ニ過キサルモ其改良ニ付テハ成ルヘク天然ノ風景ヲ害セサラン事ヲ望ム
中山議員
奈良県立図書情報館所蔵『明治二十六年十一月 奈良県会議事録』p.74。太字強調は当ブログ筆者による。
欧米風ノ菊水楼ヲ建築シタルニ、却テ外人ニ嘲笑セラレ、我有識ノ人士ニ攻撃セラレ、遂ニ日本風ニ改築スルノ已ムヲ得サルニ至リシニ非スヤ
しかし、ここに挙げられている「菊水楼」「菊水なる楼」が奈良帝国博物館を指していると判断するのは,いささか難があるだろう。
奈良公園周辺の建築に詳しい方からすれば、上記の史料から連想されるのは博物館よりも寧ろ現在春日大社一の鳥居前に位置する「旅館 菊水楼」の方であろう。「旅館 菊水楼」は明治24年に創業した老舗料理旅館であり、その旧本館は木造桟瓦葺の和風建築である。そのプロポーションや一部調度品に西洋風の設えがあるといえども西洋建築とは言い難いため、明治の奈良県議員が指摘する建築か現在の菊水楼を指すものかどうかは疑問が残る。しかしそれ以上にこの文面を帝国博物館と結びつけることは違和感があるのではないだろうか?何より、前述の通り帝国博物館の竣工は明治27年であり、これらの議会の最中は未だその全貌をあらわにしていない。
いずれにせよこの史料も、奈良帝国博物館の不評説を支えるに足るものとはいえないだろう。
3.「新築奈良県庁図面説明」における、長野宇平治による記述
最後に紹介するのは、上述の奈良県庁舎が完成した後に、明治28年の『建築雑誌』上に投稿された設計者長野宇平治による以下の発言である。
其設計を爲すに付て一個の要求あり。曰く「奈良の地は我國美術の粹とも稱すべき古建築の淵叢たり。世人既に似而非西洋風建築に嫌厭す。宜しく本邦建築の優點を採るべし」と言ふに在り。
長野宇平治「新築奈良県庁図面説明」建築学会編『建築雑誌』10(111)、1896、PP61。太字強調、カギ括弧は当ブログ筆者による。
世人、すなわち奈良県民は「既に似而非西洋風建築に嫌厭」しているので、県庁舎を建てるにあたっては和風の外観にしてほしい。長野宇平治は設計に当たり、奈良県からこのように要求されていたのである。この点は上述の奈良県議会における発言でも確認できる事実と言えるだろう。この一文もまた,奈良帝国博物館の不評を裏付ける言説としてしばし引用されるものである。
だが、ここに取り上げられている「似而非西洋風建築」とは、奈良帝国博物館を指すものと判断していいのであろうか?「似而非西洋風建築」とは、現代で言う「擬洋風建築」の古い呼び方であり、宮内省技師として数多の本格的な西洋建築を手がけてきた片山東熊の作品に対して用いるには不適当な呼称である。
実は当時の奈良県にも,擬洋風建築は存在した。「寧楽書院」は明治10年に興福寺境内に建設された擬洋風建築であり、当初は教育機関として、後に奈良県の仮庁舎として利用された建築である。しかもその存在は奈良県民からは快く思われていなかった。というのも本建築は、
- 興福寺境内にある、
- 興福寺建築の部材を用いた、
- 興福寺お抱えの大工集団にる
施設でありながら
- 政府によって推し進められた
- 洋風の外観を持つ
- 学校という近代的な施設
として竣工されているという意味において、「奈良における伝統建築の敗北宣言」に等しい建築であった。
当時庁舎として仮利用していた擬洋風建築が奈良町民の市民を逆撫でするものであったという点は、新しい奈良県庁舎の設計に和風の外観が条件づけられたことの根拠として理解しやすいものである。少なくとも、まだ全貌をあらわにしていない奈良帝国博物館にその理由を求めるよりは、遥かに妥当ではないだろうか?
まとめ
各種史料によれば、当時の奈良公園周辺には
- 不当に住み着く「常住者」
- 外国人に蔑まれる「菊水なる楼」
- 世人が疎む「似而非西洋風建築」
の存在があり、奈良公園の風致を破るものとして議論を招いていた。一方で片山東熊による奈良帝国博物館を直接的に非難する言説は、現時点で確認できていない。
こうした点を踏まえると、一般に語られる「奈良に近代和風建築が多いのは帝国なら博物館が不評だったから」という説は、上記の事実を混同した結果生まれた主張である可能性も指摘できる。
無論今回の調査は簡易的なものであり、これだけで奈良帝国博物館が当時奈良県民にどのように受け入れられていたかを判断することは出来ない。片山東熊自身の設計思想や、当時の奈良県下における新聞や書籍における描写など、より多くの情報にあたりさらなる追加調査をすることが求められる。
参考文献
- 奈良県教育委員会 編『奈良県の近代化遺産 : 奈良県近代化遺産総合調査報告書』奈良県教育委員会、2014。
- 奈良公園史編集委員会編『奈良公園史 本編』奈良県、1982。
- 片山東熊「奈良博物館配景圖(アートタイプ)工學博士片山東熊君同地圖」『建築雑誌(93)』1894。
- 清瀬みさを「旧奈良県庁舎建設と古都のゲニウス・ロキ : 長野宇平治の可及的建築」『人文學(193)』、2014、pp.1-37。
関連記事
References
↑1 | 文化遺産オンライン「旧帝国京都博物館本館」 |
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↑2 | 文化遺産オンライン「旧帝国奈良博物館本館」 |
↑3 | 藤森照信『日本の近代建築(下)-大正・昭和編』岩波新書、1993 |
↑4 | 国立文化財機構奈良文化財研究所 編『奈良県の近代和風建築 : 奈良県近代和風建築総合調査報告書』奈良県教育委員会、2011、p.171。 |
↑5 | 以下の考察は、清瀬みさを「旧奈良県庁舎建設と古都のゲニウス・ロキ : 長野宇平治の可及的建築」『人文學(193)』、2014、pp.1-37の内容を下地として展開したものである。 |
↑6 | 奈良県立図書情報館所蔵「奈良県令第113号(奈良公園地内取締規則)」『奈良県公文録 廿五年県令』1892。 |