近代建築の解説には、しばしば「和洋折衷」というフレーズが登場する。
しかし一口に「折衷」といえども、先人たちのバラエティ豊かなデザインと文化を模倣・融合するための試行錯誤は極めて多岐にわたり、そのバリエーションは一様ではない。江戸以来の宮大工・数奇屋大工による「擬洋風建築」や、西洋建築様式の外壁に瓦屋根を載せた大正期の「帝冠建築」などは、その代表例だろう。
しかし、木に竹を接いだようなインパクトのある外観故か、これら2つの和洋折衷はあまり万人受けする建築では無い印象を覚えるのは筆者だけであろうか。
その一方で、同じ和洋折衷建築でも奈良県が誇る「奈良ホテル」「奈良基督教会」「佐保会館」と言った木造の近代和風建築は、和洋の要素を無理なく取り入れた洒脱な建築として、多くの人々にとって受け入れやすい意匠なのではないだろうか?
これらの建築には共通して「板張りの腰壁に白漆喰塗の真壁造、屋根は桟瓦葺入母屋造」といった要素の組み合わせが用いられており、奈良公園周辺においては定石と言えるほど定着している外観である。茶色と白と黒のコントラストは、古都奈良の風情にふさわしい、親しみと気品をたたえた建築様式と。
この名もなき建築様式は、一体どのようにして生まれたのであろうか。無論その原点も、やはり奈良に存在していた。建築家長野宇平治による「旧奈良県庁舎」は、近代建築史の教科書になら必ず掲載されている、近代和風建築の原点とも言うべき名建築である。
目次
基礎データ
所在地 | 奈良市登大路市 |
設計者 | 長野宇平治 |
造園 | 橋本卯兵衛 |
構造 | 木造2階建 |
竣工年 | 明治28年(1895) |
利用状況 | 現存せず |
成立背景
明治20(1887)年 「奈良県」の再設置
奈良県が大阪県から独立して再設置される(当時奈良県は大阪県の一部として吸収されていた)。しかしこの独立の際、奈良県庁舎としては専用の建物はあてがわれず、興福寺食堂跡に建てられた擬洋風建築「寧楽書院」が庁舎として転用されていた。
明治27(1894)年 県庁舎の建設開始
臨時県会にて、古沢知事によって新県庁舎の新築が提案され議決する。設計にあたっては、下記のような条件が与えられた。
其設計を爲すに付て一個の要求あり。曰く奈良の地は我國美術の粹とも稱すべき古建築の淵叢たり。世人既に似而非西洋風建築に嫌厭す。宜しく本邦建築の優點を採るべし、と言ふに在り。
長野宇平治「新築奈良県庁図面説明」建築学会編『建築雑誌』10(111)、1896、pp61。
この「似而非洋風建築に嫌厭」とは、それ以前に庁舎として利用されていた「寧楽書院」のことであろう(片山東熊が設計した「奈良帝国博物館」は明治27年竣工であり、また「本格的な西洋建築」であったことからも、ここでいう「似而非性洋風建築に嫌厭」に該当しない)。
同様に、本設計が終了した後の『県報(明治28年12月24日)』にも、本建築を手掛けた長野宇平治による工事報告が掲載されている。
可及的日本風の趣味アル建築
木材ノ架構ハ前陳ノ如ク骨組全ク西洋流ノ長所ヲ採リ且ツ耐震ノ点ニ留意シ、之ヲ被フニ日本流ノ装飾ヲ以テシタリ、内部・骨組仝ク西洋流ヲ以テスルニ拘ハラズ、外形ハ日本流ノ装飾ヲ以テ被フニ些ノ不都合ナキヲ見ルニ足ラン、
奈良公園史編集委員会編『奈良公園史 本編』1982、p.173。
これによれば、構造面では西洋建築の技術を、外装には日本建築の意匠を採用し、内装は特に拘らないというのが設計方針であったようである。「可及的」というのは「可能な限り・できるだけ」という意味なので、「できるだけ日本建築風に」という趣旨であろう。
ちなみに、奈良の地において「木造和風建築」の庁舎を作ることが求められた要因としては、①「寧楽書院や奈良帝国博物館といった洋風建築への批判的風潮」という地域性に加え、②「日清戦争によるナショナリズムの向上と伝統への回帰的運動」という時代性も反映しているとされている。
そして明治28(1895)年、奈良県庁舎は無事落成した。
昭和40(1965)年 新県庁舎の完成と旧庁舎の移築
その後長らく利用された本建築であるが、建設省近畿地方局の片山光生により、新奈良県庁舎が旧庁舎の西側に建てられることが決定した。旧庁舎は「天理教いちれつ会館」として天理へと移築されることとなる。
その後、昭和63(1988)年には天理教教会真柱によって『天理教いちれつ会館(旧奈良県庁舎)保存に関する要望書』が建築学会に提出された。
最終的には「解体保存」という形で保管され、再びその姿を見せる日を待っている。
建築について
構成
- 敷地は現在の奈良県庁敷地と同じ道路沿いの、やや東の区画に位置していた。
- 2階建て352坪の本館、平屋建て162坪の議事堂、その他約300坪の附属建物で構成される。
- 複数の棟で構成された左右対称な平面を持つ。
- 土台には檜・杉の赤身部分を、柱には杉、根太・床板には樅が用いられているが、いずれも奈良公園花山山林の人工林から伐採されたものである。この木材利用が、後に奈良公園敷地内における林業経営の契機となった。
- 施工は奈良県技師の橋本卯兵衛で、建設にあたっては技術者としてだけでなく出資者としても貢献した。
立面
- 基礎 周壁・間仕切壁下に厚さ一尺五寸のコンクリート。礎石には地産の花崗岩を用いる。また、写真としては残されてはいないが、中庭部分の基礎には化粧煉瓦が用いられた。
- 正面玄関には桟瓦葺入母屋屋根の車寄せが突出する。
- 板張りの腰壁に白漆喰の真壁造。柱頭には舟肘木を設け桁を支える。
- ただし厳密には「真壁風の外観」であり、柱・長押。樋・樌はいずれも薄板の化粧材である。実際には柱の間には筋交いを入れ金属製の継ぎ手で部材を固定するなど、必ずしも伝統的な工法に固執していない。
- 窓ガラスは外周部には外開きの西洋窓を、中庭に面する部分には引違いの和洋窓を用いた。
屋根
- 屋根は桟瓦葺で入母屋造りと切妻屋根によって構成される。入母屋屋根の棟は中央には破風を設け、大棟に鴟尾を、隅棟・降棟にそれぞれ鬼瓦あげる。切妻屋根の棟も同じく桟瓦葺で、大棟・隅棟に鬼瓦を設ける。
- 以上、典型的な日本建築の屋根であるが、西洋建築風のプロポーションを保つためか傾斜がゆるく、軒の出も浅い。小屋組みには松材のキングポストトラス(部分的にクインポストトラス)を用いた。
- 講堂を折上格天井とするほかは、天井はどこも漆喰塗り仕上げ。
考察
本建築の建設予算について
本建築は、国内でも前例のない様式の設計であったにも関わらず、その予算は少額であったらしい。『建築雑誌』には「此の如き大なる要求の下に甚少額なる(寧ろ最小限とも謂ふも可なる)工費を供せられたり。設計者の苦心知る人ゞ知らん。」と愚痴めいた記述も残されている。
本建築の工費は23120円であり、同時代の県庁舎建築である「初代香川県庁舎(明治27年)」の総工費が30320円[1]石田潤一郎『都道府県庁舎 その建築史的考察』思文閣出版、1993。、立地も年代も近い建築である「奈良帝国博物館(明治27年)」の工費が92794円43銭[2]奈良公園史編集委員会『奈良公園史 本編(以下公園史)』奈良県、1982、p.153。であったことを考えれば、確かに「最小限」の費用と言えるだろう。ちなみに、その後本建築の影響を受けて作られた建築は、
- 奈良物産陳列所(明治35年):25814円56銭[3]奈良公園史編集委員会『奈良公園史 本編(以下公園史)』奈良県、1982、p.220。
- 奈良県立戦捷紀念図書館(明治41年):30684円[4]奈良公園史編集委員会『奈良公園史 本編(以下公園史)』奈良県、1982、p.221。
と、やはり建設費が控えめである。宇平治式の設計は、県の財政に優しい建築様式であった。(もっとも、この宇平治の様式の最高峰とも謂うべき『奈良ホテル』については、総工費が約35万円と異次元の予算を費やした[5]奈良公園史編集委員会『奈良公園史 本編(以下公園史)』奈良県、1982、p.153。のであるが。)
同時代の和風建築への影響
前述の工事報告書において、宇平治が「此クノ如キ方法ヲ以テ後来木造ノ建築ニ応用スルハ予輩建築家ノ希望スル所ニシテ、或ハ此建物ハ他日ノ一標本トナルコト無キニシモ非ラザルベシ」と記したとおり、本設計は戦前の木造近代和風建築における一つのスタンダードになってゆく。具体的には、近世までには存在しなかった用途の建築(銀行・庁舎・ホテル)に対し、
という形で和風の外観を与える手法が、本建築によって定着した。例えば兄弟弟子の妻木頼黄 ・武田五一による「旧日本勧業銀行本店(現:千葉トヨペット本社)」はその筆頭であろう。
そのほか、奈良県下においては、一般に下記建築にその影響が認められるとされている。
明治35(1902)年 | 奈良県物産陳列所 | 長野宇平治の兄弟弟子にあたる、歴史学者関野貞によって設計。 |
大正14(1925)年 | 奈良教務支庁 | 辰野金吾の孫弟子に当たる、岩崎平太郎によって設計 |
明治41(1908)年 | 奈良県戦捷紀念図書館 | 旧奈良県庁舎・物産陳列所の施工を担当した、橋本卯兵衛によって設計。 |
明治42(1909)年 | 奈良ホテル | 関野貞・長野宇平治の師匠に当たる、辰野金吾(および片岡安)によって設計。 |
昭和3(1928)年 | 奈良女子大学佐保会館 | 辰野金吾の孫弟子に当たる、岩崎平太郎によて設計。奈良ホテルとの共通点が多く見られる。 |
昭和5(1930)年 | 日本聖公会奈良基督教会 | 郡山藩の大工である大木吉太郎の設計。設計に際し、「奈良ホテルに準ずる外観」がその条件として与えられた。 |
この建築は、まさに近代和風建築に新しい地平を切り開いた、イノベーティブな様式の発明だったといえるだろう。
長野宇平治の自己評価
しかし長野自身は、伝統建築や和風建築の伝道者となるつもりは毛頭なかったらしい。彼にとって奈良県庁舎の設計は、地方建築において社会的意義のある仕事だとは自負しつつも、今ひとつ傑作であると公言するにははばかられる出来であったことが、下記の記述などから読み取れる。
新廳舎は似而非西洋建築に比して果して優る所あるや否やは予自らも知る能はず。唯此前例なき建築に付いては識者の批評を聞き得んと予の切望に堪へざる所なり。
長野宇平治「新築奈良県庁図面説明」建築学会編『建築雑誌』10(111)、1896、PP.61-62。太字強調は筆者による。
此種の建築は若し建築家諸子の技倆ある手腕に依って旨くこなされたれば、後來トランジショナル、スタイルとして或いは現今の社會の事情に於いては殊に地方の需要に最も適應するとあらんかと思はる、敢て識者の一考を煩さん
結局彼は「(このまま奈良にいては)自分の将来は西洋建築から遠ざかってしまう[6]鈴木壮太郎『工学博士長野宇平治作品集』建築世界社、1928、pp79-80。」との判断から、わずか2年で奈良県技師を辞職することとなる。彼にとって近代建築を瓦屋根の寺院風建築に改造するこの試みは、さほど意欲の燃えるものではなかったようだ。
その後長野は、明治30(1897)年に日本銀行技師の職に付き、国内外無数の銀行建築を手掛ける事となった。再び彼が奈良の地を踏んだのは「南都銀行本店」の設計に際してであるが、この時の設計はイオニア式の列柱にタイル貼りという、生粋の近代西洋建築であった。
時代背景的に見ても、「西洋建築の輸入と内製化」こそが工部大学校造家学科(現東京大学建築学科)第一期卒業生にとっての最重要の使命であったのである。
参考文献
- 長野宇平治「新築奈良県庁図面説明」建築学会編『建築雑誌』10(111)、1896、pp.61-63。
- 鈴木壮太郎『工学博士長野宇平治作品集』建築世界社、1928、pp76-80(及び付録pp.76-78)。
- 清瀬みさを「旧奈良県庁舎建設と古都のゲニウス・ロキ : 長野宇平治の可及的建築」『人文學(193)』、2014、pp.1-37。
- 奈良公園史編集委員会編『奈良公園史 本編』奈良県、1982、p.173。
- 村松貞次郎、近江 榮『近代和風建築』鹿島出版会1988、pp.144-149。
References
↑1 | 石田潤一郎『都道府県庁舎 その建築史的考察』思文閣出版、1993。 |
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↑2, ↑5 | 奈良公園史編集委員会『奈良公園史 本編(以下公園史)』奈良県、1982、p.153。 |
↑3 | 奈良公園史編集委員会『奈良公園史 本編(以下公園史)』奈良県、1982、p.220。 |
↑4 | 奈良公園史編集委員会『奈良公園史 本編(以下公園史)』奈良県、1982、p.221。 |
↑6 | 鈴木壮太郎『工学博士長野宇平治作品集』建築世界社、1928、pp79-80。 |