和風庭園を見る上で欠かせない視点の一つに、「庭園敷地の広さを錯覚させる」というものがある。敷地内外を隔てる垣根や壁はなるべく植栽で隠し、庭の遠方に実物より小さめの橋や灯籠を置くことで遠近感を狂わせ、河川や道をジグザグに配置することでどこまでも広がる広大さを感じさせる。実際の何倍も広い庭であるかのように来訪者を錯覚させる技術が、日本庭園には施されている。
奈良の依水園はそんな日本庭園の妙を強く体感できる庭園である。依水園は東大寺大仏殿や奈良公園に隣接する庭園で、江戸時代に作庭されたやや閉鎖的な前庭と、明治時代に作られた開放的な後庭に別れる。この前庭から後庭へ足を踏み入れると、それまで鬱蒼としていた庭園の視界が突然開かれ、眼前には、芝生の茂る築山と大規模な池が飛び込んでくる。そしてその向こう側には、若草山の新緑と東大寺大仏殿の屋根が垣間見え、まるで奈良公園一帯全てがこの庭の一部であるかのような錯覚に陥るのである。
目次
基礎データ
所在地 | 奈良市水門町 |
設計者 | 清須美道清(前園)・裏千家十二世又妙斎宗室(後園) |
構造 | 木造平屋建 |
竣工年 | 明治32-44年(1899-1911年) |
利用状況 | 店舗有 |
見学条件 | 自由(見学料あり) |
施設利用案内
依水園(いすいえん)は古都奈良にある、四季の花々に彩られた美しい日本庭園です。大仏殿を有する東大寺と興福寺の間に位置していながらも静かなひと時をお過ごしいただける歴史ある空間です。また、園内には古美術品を数多く収蔵する寧楽(ねいらく)美術館も併設されています。
見学
- 休園日:毎週火曜日 庭園整備期間(12月末から1月中旬、および9月)
- 営業時間:9:30-16:30(入園は16:00まで)
一般 | 1200円 |
高校生・大学生 | 500円 |
小学生・中学生 | 300円 (土日は保護者同伴の場合無料) |
障害者 | 500円 (介添え者1名 無料) |
奈良市ななまるカード所持者 | 500円 |
団体割引(15名から) | 1000円/1人 |
食事処「三秀」
江戸初期前期に作られた「三秀亭」で、日本庭園を観ながらお食事を。依水園では食事処「三秀」として、「麦とろめし」を主としたお食事を召し上がっていただけます。
- 営業日:開園日と同じ
- 営業時間:10:30-15:30(食事は11:30-2:00LO)
成立背景
寛文12 (1673年) | 晒職人であった清須美道清によって作庭。(現在の前庭にあたる区画。) |
明治32 (1899)年 | 下御門町の呉服商であった関藤次郎によって買収。裏千家十二世又妙斎宗室によって後園が作庭され、現在の形に。 |
昭和14 (1939)年 | 神戸の海運実業家中村準策が土地を取得。 |
昭和20 (1945)年 | 昭和27年までのあいだ、米軍によって接収。 |
昭和33 (1958)年 | 庭園の一般公開開始。 |
昭和42 (1967)年 | 敷地内に、中村家所蔵の美術品を展示する寧楽美術館建設。 |
昭和50 (1975)年 | 国の名勝に指定。 |
建築について
全体像
- 東西に伸びる敷地をもち、造園時期の異なる前園と後園によって構成される。
- 庭園入口より東側に広がる前園は、江戸時代の晒職人清須美道清による造園で、移築された三秀亭をシンボルとする
- 敷地奥の後園は、裏千家十二世又妙直叟宗室による庭で明治32年頃のものである。入り口周辺には管理棟と土蔵が建ち、池の周りにはその後移築された柳生堂・挺秀軒などが配置される。
- 氷心亭・柳生堂・清秀庵などの天井板には、「新薬師寺古材」という焼印が見られることから、明治30年の新薬師寺本堂解体修理の廃材が用いられることが確認できる。
- 吉城川を挟んで南には吉城園が隣接する。
管理棟・清秀庵
- 管理棟は敷地中央に位置する建物で、後園と同時期(明治33年)に成立したと見られる。
- 玄関を入ると取次の間があり、そこからクランク状に走る廊下に沿って茶室(清秀庵)・事務室・玄関・洋室・藤の間などが雁行して並ぶ複雑な平面を持つ。
- 清秀庵は管理棟に接続する茶室の名称で、裏千家又隠席の写しである。
- 屋根は入母屋造りに瓦葺きと茅葺きが入り交じり、明治25年作の十一代目楽吉左衛門の南妻面鬼瓦や、龍の意匠が施された赤色三角形の隅瓦などが個性的である。
- にじり口の正面に床を設け、四畳半切りの炉に洞庫[1]洞庫:点前畳の前に設けられた押入式の仕付棚を具す。天井は基本廻り縁を施した網代天井であるが、にじり口側半通りは化粧屋根裏とする。床は薄縁床[2]薄縁床:床板に畳状の薄い敷物を縫い付けた床の間。に赤松の皮付き床柱[3]皮付き床柱:変木の一種。その名の通り、樹皮を剥がずに残した丸太のこと。
- 台目4畳の鞘の間[4]鞘の間:書院造りにおいては、畳敷きになっている縁側のこと。本来は仏教建築における、本堂と鞘堂をつなぐ空間を意味する。を介し、隣接する六畳台目の茶室に接続する。つぼつぼ引手[5]つぼつぼ引手:襖引手(つまりドアノブ)の一種。複数の真円を重ね合わせたような造形をしており、裏千家の流派であることを示す。の襖は5ッ揃いであったが、現在は3ッや2ッに。
氷心亭
- 藤の間からさらに後園中心に向かって伸びる渡り廊下からは、本庭園の主座敷にあたる氷心亭に接続する。
- 明治20年〜30年ごろに作られたと見られる。
- 兜造風の茅葺屋根をもつが、小屋組みはキングポストトラス。
- 池方向には裏千家寒雲亭の写しである十三畳の広間と五畳半小間が雁行し、管理棟側には九畳の次の間が続く。
- 13畳の広間ででは、天井には新薬師寺の古材が用いられ、平天井、掛込天井、舟底天井など複数の構造が組み合わされる。
- 小間は、半畳の床に北山杉の絞丸太[6] … Continue readingを用いた床柱、節有の松の床板、煤竹の天井。
- 次の間では、天然の絞丸太の床柱(椛)、三笠の山を模したと思われる欄間、新薬師寺の古材を用いたと見られる天井や建具の下板などが見どころとなる。
- 関藤次郎『依水園十勝詩集』にも氷心亭が詠われていることから、後園と同時期に成立したと見られる。
三秀亭
- 三秀亭は前庭の東端に位置する、清須美道清によって移築された別邸。現在は食事処「三秀」として利用される。
玄関部分は栗木の丸太を棟木とし、煤竹を張った舟底天井。
- 四畳・八畳・六畳の広間を持ち、床の間には45°に折れた特徴的な天袋を設ける。
三秀亭からは前庭を眺めながら喫茶を楽しめる。
外廻の建具には手吹きガラスが用いられる。
挺秀軒
- 挺秀軒は三秀亭同様、清須美道清によって建てられた近世の茶室。
- 屋根は増築部を除き茅葺き屋根で高床式。床下や犬走りにも砂利や石を敷き詰める。
- 床は踏込床で落し掛けのない室床。土壁に穿たれた円窓や丸炉が特徴的。
- 後に関藤次郎によって縁側が取り付けられ、裏千家茶席の待合として用いられるようになった。
柳生堂
臨溪庵
敷地最奥には、かつて存在していた臨溪庵という茶室の礎石や寄付が残される。この茶室は昭和3(1928)年に奈良市法蓮町の興福院へと移築された。
庭園
- 東大寺南大門と若草山の借景を最大の特徴とする、奈良県下最大級の池泉廻遊式庭園である。
- 前庭から清秀庵の露地を抜け後園に入ると急激に視界がひらけ、広大な池とその中央の芝生張りの築山、そしてその奥に見える若草山が視覚的に一体となる。この景色の演出によって、奈良公園すべてがこの庭の敷地であるかのような錯覚を見るものに与えている。
- 2つの庭の間は、編笠門が設けられている。
冬季には、苔を保護するために松の葉を敷き詰める「敷松葉」が行われる。
参考文献
- 国立文化財機構奈良文化財研究所 編『奈良県の近代和風建築 : 奈良県近代和風建築総合調査報告書』奈良県教育委員会、2011。
- 辻本眞明「又玅斎の茶室」千宗室監修『裏千家今日庵歴代 第12巻 又玅斎直叟』淡交社、2009。
- 重森三玲『日本庭園史図鑑 明治大正昭和時代 三』有光社、1936。
- 関藤次郎『依水園十勝詩集』1917。
- 奈良建築士会 女性委員会編『建築の原点を求めて 大和茶室探訪』奈良県建築士会女性委員会、1998。
関連記事
References
↑1 | 洞庫:点前畳の前に設けられた押入式の仕付棚 |
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↑2 | 薄縁床:床板に畳状の薄い敷物を縫い付けた床の間。 |
↑3 | 皮付き床柱:変木の一種。その名の通り、樹皮を剥がずに残した丸太のこと |
↑4 | 鞘の間:書院造りにおいては、畳敷きになっている縁側のこと。本来は仏教建築における、本堂と鞘堂をつなぐ空間を意味する。 |
↑5 | つぼつぼ引手:襖引手(つまりドアノブ)の一種。複数の真円を重ね合わせたような造形をしており、裏千家の流派であることを示す。 |
↑6 | 絞丸太:突然変異により、樹木の表面に波上の凹凸模様が現れた丸太のこと。人工的な加工で作り出すこともできるが、美しい天然の絞り丸太は高級品とされ、茶室などに用いられた。 |